咲-Saki-阿知賀編SS『夢幻』

 直射日光、高温多湿を避けて保存してください。
 園城寺怜の扱いには注意が必要だ。目を離したらいつどこで倒れているかわかったものではないからだ。とは言っても置き場所に注意が必要なだけで、扱いが特別難しいわけでもない。強い日差しも湿った風も、どうせ室内では調整されて一年中過ごしやすい環境になってしまうのだから。要はエアコンの効く屋内であればどこでもいい。
 あとは好みの枕でもあれば、彼女は快適に横になることができるだろう。

 部の合宿で割り当てられた一室。その二人部屋は、甘党向けに作られたお菓子のような、とても甘ったるい香りに包まれていた。
 少女が二人、ベッドの上にいる。
 少女の内の一人である怜は、寝具に頬を寄せている。彼女が気に入っている寝具の白い靴下は膝上まであって、短いスカートは靴下まで届いていない。すなわち両者の狭間には人肌がある。ベッドとしてはだいぶ小さいうえ、枕としての質なら、安物のそれにもいくらか劣っているかもしれない。俗に言う膝枕だ。
 それが彼女はお気に入りだ。
 普通の枕と比べてやや眠りづらくはあっても、眠ることにおいて快適でなくとも一向に構わない。理屈ではない安らぎが、そこには確かにあった。
 長い黒髪を持つ枕の離れられない心地の良さに、そこに寝る怜の表情は、穏やかにして心ここにあらず、といった様子である。
「竜華はほんま、人間にしとくにはもったいないな」
 溜め息をつくように、怜は呟く。
 戯れに過ぎない言葉を受けて、枕役の竜華が役柄に反して言葉を発する。
「じゃあ何になったらええの?」
 喋る枕は半ば笑っている。特に中身のない会話だ。
「枕とか、向いとるんやないかな」
「うちみたいな可愛い子が枕やったら、きっとバカ売れの大ヒット商品やでー、なんてな」
 茶目っ気たっぷりに竜華は言うが、一般的な美的感覚の持ち主から見れば、その言葉には何一つ疑うところがない。
「冗談になっとらんで」
「お、褒め殺しか」
「お気に入りの枕やもん。ご機嫌とっとかんとな」
「なんやそれ」
 雑な返しは照れ隠しかと思いきや。話を切り上げたくなるほど膝枕が恋しくなっただけのようで、かったるそうな様子の怜はうつ伏せになると、それきりウンともスンとも言わなくなった。そんな気分屋のような怜の頭に手を置いて、竜華は手櫛で撫でるように髪を梳く。友人としても仲睦まじい二人の様子は、名目上は確かに友人ということになっている。
 だが、彼女たちは可憐だ。美貌の二人がこれだけ近い距離で戯れあっているのだから、二人の間柄がどういうものか、それを見るだけで推して知るべしといったところである。
 容姿の整った女子が多いといわれる千里山女子の生徒の中でも、特に竜華の美しさは群を抜いている。気の強そうな目に整った輪郭が小悪魔を思わせる顔の作りもさることながら、体を動かすことの少ない文化系の部活に属しているにもかかわらず、元来の活発さが彼女の体を油断させることはない。女子の体としては実に理想的な体型を誇っている。
 美貌の二人といえば怜だって負けず劣らず。むしろ顔だけならば怜の方が好ましいと思われることが多いかもしれない。彼女は彼女で非凡なまでに恵まれており、体にしたって無駄のない怜のシルエットを好む者は少なくないだろう。
 だが竜華にはひとつ、何物にも代え難い極上の太ももがある。不都合にもその魅力を数値化することはできないが、ただ魅力的であるという単純な証拠であれば、今現在から探すにしてもすぐに見付けることができる。そのことについては、怜が証人となっているようなものだからだ。
 たとえば触り心地の良さなどは、いつもその太ももから離れない怜を見れば誰にでもわかろうというものであり、彼女はそこに、いつも顔をうずめている。
 息苦しくないのだろうか。
 第三者が見たら心配になってしまいそうなぐらい、今もすっかり顔を隠してしまっている。スカート越しにある竜華の太ももは肉付きがよく、睡眠欲ではない三大欲求が、その栄養価によっても刺激されてしまいそうである。
「ん……寝息やないな。こら、くすぐったいやん」
 スカートの辺りでかすかにもぞもぞ動いている怜に反応して、竜華が身をよじる。
 怜は顔の向きを変えると短い息を吐き、わずかに頬を赤らめた恍惚の表情で感想を口にした。
「ええ匂いがするん」
「匂いて。どんな?」
「……私の匂い?」
「うちのじゃないんかい」
 竜華には特別な匂いが付いている。
 それは彼女の体臭ではなく、彼女のスカートには、代わりに怜の髪の毛の匂いが付いている。怜が使っているシャンプーの匂いと、汗の匂いだ。竜華ではなく怜の体臭だと言えば違いないか。
「まあいずれにしても、下半身からあんま匂いがするとか言われても複雑やけどな」
「私の匂いが付いてしもとるんやな」
 言って竜華の太ももへと、愛しげに頬を擦り付ける怜。
 彼女自身の匂いだというのにやけにご執心な様子なのは、ある種の縄張り意識みたいなものだろうか。
 事実、そこは怜にのみ許された場所だ。
 二人以外に誰かいるいないにかかわらず、二人でいるときは、いつもこんな状態の彼女たちである。
「今日もずっとこうやもんな。匂いだけやなくて、そろそろうちの脚に怜の顔型が付きそうやん」
「傷物にしてごめんな。責任とらせてもらうからな」
「なんや、うちと結婚でもするん?」
「それもええな」
「残念やけど、うち、こんな病弱さんはお断りや」
「それは残念や」
 婚約を断られても、元々表情の変化に乏しい怜の顔は、ちっとも残念そうな顔をしていない。
 対して竜華の表情といえば、
「病弱アピールをせなあかんような子は、うちの好みやないからな」
 拒絶の色が見られないどころか、慈愛に満ちた目で怜を見ていた。
「……だから、はよ、良くなるとええな」
「……そやな」
 病弱な怜を可哀想だと言う者もいる。だが、竜華はその一人ではなく、どちらかと言えば、その反対だった。
 まだ共にあるべき大切な人を残して逝くことは、想像もできないほど辛いことかもしれない。だとしても、愛しい人に先立たれることの辛さが、それに劣ると言い切れるだろうか。残された者はその寂しさをずっと抱えて生きることになるのだから。どちらがより辛いかなどは、論じるだけ不毛ではないか。
 彼女たちは誰がどう見てもお互い好き合っている。それは普段の様子からも明白であり、きっと二人きりのときは飽きるほど愛の言葉を囁きあっているのだろうと、多くの者はそう思っているに違いなかったが。
「まったく、こんな甘えん坊がうちのエースやなんてな」
「世の中間違っとるな」
 しかし実際には、二人の口からそんな言葉が出ることは、意外なまでに無い。
 ともすると消えてしまいそうな儚い命を前にして、ただの言葉にしか過ぎない愛情がなんの証明になるだろう。
 仮初の安心など求めていない二人は、言葉よりも体を触れ合わせることを選んでいた。
 いっそこのまま共に朽ちようか。
 融け合うぐらいに近い命が、彼女たちの心を縛るように繋いでいる。
 前途不透明ゆえの恋しさなど、心から愛し合う二人にとっては不本意な繋がり方だ。当然そんなことは、いくら病弱な怜にしても、本望であるはずがない。
 もしも未来への憂いがなくなったなら。ただの言葉でも十分に感じられるぐらい、末長い関係になることができたなら。そのとき怜は、いったいどんな言葉を口にするのだろうか。
「あのな、私な、全国で優勝したら、竜華に聞いて欲しいことがあるんよ」
「ん、今じゃダメなん?」
「元気になってからがええんや。なんとなくやけど、優勝できたら、私、嘘みたいに健康になれそうな気がするん」
「色々普通やない怜がなんとなくそう思うんやったら、きっとそうなんやろな。でも、全国制覇は厳しいで?」
「信じてええよ。新しいエースのいる千里山は、絶対負けへんから」
「あはっ、大した自信や。なら期待させてもらうで、うちにべったりのエース様」
「おー、どんとこい、っちゅーやつや」
 怜はまるでやる気の見られない顔で大口を叩く。
 そのときだった。パリッと音がして、部屋に置かれていた花瓶にヒビが入った。二人とも目をやるも、原因らしい原因は何も見られなかった。
「なんや? 珍しいこともあるもんやな」
 一瞥する程度でそれ以上気にすることのなかった二人の目に、直後またもや珍しい光景が飛び込んできた。
 開けっ放しの窓から、なんと黒猫が飛び込んできたのである。
「猫や。かわええな」
 おかしな出来事にも怜は動じず、おいでおいでと、のんきに手招きをしている。
 黒猫はにゃあにゃあ鳴きながら怜のそばを横切ると、特に用事があったわけではないらしく、気が済んだのかすぐに窓から出ていってしまった。次いで、置物として部屋に飾られていた下駄の鼻緒が、ぷちっと切れた。
「なんやおかしいな。黒猫て……」
「猫さんも寄り道したいときぐらいあるんやろ」
 いぶかしむ竜華とは対照的に、怜の表情には曇りひとつない。
 おかしな出来事が気にならなくなるほど、竜華の膝枕は快適なようだ。
「まあ、あれや。この枕でずっと眠ってたいのは山々やけど。病弱なんはそろそろ飽きてきたわ」
 あまり変化のない顔に限れば元気そうに見えても、やはり身体的には病弱そのものである。横になってばかりゆえ起きあがるのも一苦労な怜は、どうにか体を起こすと竜華の隣へと座り、軽すぎる体重を預けて寄りかかった。
 制服の上からでも一目で細身だとわかる怜とは違って、抱き枕にすれば極上の柔らかさを味わえるだろう竜華の体が密着する。その豊かな胸に手を伸ばすことだって、近しい怜には容易くできるだろう。だが怜の手は魅惑の肉体に伸ばされることはなく、「それに……」と短い言葉を口にしたあと、そっと互いの指と指とを絡めるのみにとどまった。
「いつまでも竜華の重荷になってんの、いややもん」
 目を瞑った怜は、微笑んで言った。
「別に、重荷だなんて思っとらんで?」
「それだけやなくてな。ずうっと膝枕だけやと、物足りんし」
「そっちはなんか意味深やね」
 茶化す竜華だが、その目は優しく細められている。
「竜華の後を追って行きたいんや。二人で走ったり、いろんなとこ行ったり、したい」
「……うん。しような」
 海でも山でも。どこにでも二人で一緒に。
 それは今でも同じようでありながら、全然違う。今にも弾けて消えてしまいそうな、泡沫の夢。
 どれだけ身を寄せ合っても、命を分けあうことはできない。そんなもどかしさが、竜華の表情を少しだけ曇らせた。
 愛すれば愛するだけ病魔を祓えるのであれば、今すぐにでも怜の腰に手を回して、その細い体を隅々まで求めるに違いない。
 だが実際は、怜の体は、その激情に耐えることすら、恐らくはできない。
 一度でも深いところに手を伸ばしてしまえば、愛しさゆえにそのまま壊してしまいかねないという恐怖が、竜華を膝枕という名の物にしていた。
 怜にしても、竜華を物として扱わなければならないことは本意ではない。
 それでも二人は、今は、近くにいることしかできない。
 怜は繊細なガラス細工で、竜華は台座だ。距離は極めて近くとも、それに傷を付けることは許されない。
 いずれはその関係も、変わるだろうか。
「……でも、やっぱり私……」
「怜……?」
 不意に、怜の体がふらりと折れる。
 まるで、力尽きて事切れるように。
「体勢は膝枕やないと、しっくりきぃへんな……」
 倒れるように怜は、竜華の膝枕へと再び顔をうずめるのだった。
「結局それか」
 くすりと笑って呆れつつ、竜華は怜のほっぺたを指でつついた。

 その日も彼女たちは、時間が許す限り一緒にいた。
 まるで病弱な伴侶を案じて生き急いでいるようだが、実のところ、彼女たちはそれほど深刻に受け止めているわけではない。
 二人にとっての膝枕は、何よりもゆるやかに過ぎていく穏やかで幸せな時間だ。誰よりも大切な人がそばにいる身で将来をことさら悲観するなど、生涯不幸で通したい者のすることだろう。
 ある人が近い将来どうなっているかなんて、所詮人間にはわかるはずもないのだから。健康であろうと病弱であろうと、彼女たちの未来と今は、彼女たちがそう思う限りは、幸福な生に満ち溢れている。
 たとえ人間でありながら死期を悟れる者がいたとしても、今が幸福なのは変わらない。怜のように、愛しい人の膝枕に、思う存分甘えればいい。
 刹那的な死生観だが、生まれの不幸に嘆くよりはずっと前向きだと言えるだろう。
 一人の少女を病弱にしたこの世界を不幸の元凶とし、怨み、抗い、感謝するなら。
 彼女たちは、幸福であるべきなのだ。

<了>

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