咲-Saki-SS『竹井動物園』

 ナマケモノという動物は木から落ちた場合、骨折するらしい。
 当たり前のことのようだけど、ほぼ一生を木にぶら下がって生きる身でありながら、何らかのハプニングで落ちるかもしれないという常に起こり得る危険性をまるで無視したような脆弱さである。彼らはどうしてギリギリ打ち身で済む丈夫さを持って生まれてこなかったのだろうか。
 正確なことはわからないけれど、恐らくはその弱さすらも、生き残るために必要な条件なのだ。
 彼らは進化の過程で極力動かないことを前提にした生き方を選択し、現代まで生き残っている。生きるため以外の何もかもを捨てて、エネルギーの消費を可能な限り抑えることで、極めて少ない量の餌でも生き長らえることができる。
 たとえ異種族から怠け者と揶揄されようと、生存競争においては生き残ったものこそが疑う余地なく問答無用で勝利者なのだから、生態系の隙間を突いて進化してきた彼らの祖先は実に聡明であったと言える。
 強い者はそれでいい。弱い者もそれでいい。ただ大事なのは、自分のスタイルを洗練すること。
「美穂子さーん、お茶おねがーい」
「はーい」
 とはいえナマケモノという動物は恐らく突然変異の積み重ねによってたまたま生き残ったものが後世まで残っているに過ぎないのであって、実際問題、私という個体が彼らの真似をしようとすれば、不健康という死因によって短い人生を後悔たっぷりで終えることになるに違いない。
 だから一生木にぶら下がり続けることがどれだけ大変かなんて試してみる気にもなれないし、このまま愛しい人にぶら下がり続ける気もまた、ないのだった。

「えー、わたくし竹井久は、今大会限りで引退します」
 先日行なわれた引退会見をニュースで見ると、なんとも緊張感のない女がへらへら喋っていた。世間的にはそれなりに衝撃的なことだったのか、あれから何度もテレビで流されている。
 早すぎる幕切れ。短いゴール。トップを走り続けていたわけではないけれど、毎回堅実に上位に入り続けて世界的にも名が知れてきた、ちょうど矢先の出来事だった。
 麻雀という競技はよほどでなければ身体能力の衰えが不利に働くことはなく、選手としての平均寿命はかなり長命である。活躍できなかった選手が別の道を歩むために引退、ということなら往々にしてあることだけど、活躍できているにもかかわらずこの若さで引退というのは前例がほとんどない。ましてやどう見ても健康体でありながら、だ。
 ある週刊誌には「竹井久引退、忍び寄る不治の病」などとも書かれていたりするけれど、そんな事実はまったくない。ゆみとの不倫スキャンダルを捏造した週刊誌が、また飛ばし記事を書いたのだ。
 当時の記事は反面教師のお手本のような傑作だった。私とゆみをよく知る者ならば、誰もまじめには取り合わない見出しから始まっているうえ、真実味の欠片もない内容しか書かれていなかったのだから。
 渦中の二人といえば雑誌のインタビューにて、「仕事と恋人どちらが大事?」と訊かれて迷いなく「美穂子」「モモ」と答えるような愛妻家である。後者はきっと真顔だったろう。
「不倫だって。おもしろいわね」と我が家では一笑する価値すらなく話題から消えて口直しのキスに興じ、加治木家ではやきもち焼きの奥さんが少し荒れたらしいけれど、あの二人はそういう出来事を楽しんでいる節があるから、あとから聞いたその話はただの惚気話に過ぎなかった。
 まあ、憶測で書きたくなる気持ちもわからなくはない。
 今年の私は、絶好調だった。
 単に成績がいいだけでなく自己ベストを更新し続け、年間最優秀選手にもノミネートされた、これまでで最も充実した一年だった。だからこそ様々な邪推を生んでしまっているのだろうけど。客観的に見ても、まだまだこれからなのは確かだと思う。そんな中、なぜ私が引退を決めたのかといえば単純な話で、もう充分満足したからだった。
 誇張なしに世界の頂点を狙える実力を持った相手がゴロゴロひしめいているプロの世界で、自分はどれくらいの位置にいられるのか。それがもうわかってしまったから。
 わりと元気そうな見た目に反して少し疲れたというのも、大きな割合を占める本音だけれど。
 一昨年あたりから、ずっと考えていたのだった。

 私の引退会見が初めて世に流れたあと、まっさきに電話をかけてきたのは和だった。
 驚いたのか、怒っているのか、あるいはその両方か。すごい剣幕で、耳が痛いくらいの勢いだった。
 和との対局に限ってはギリギリ私のほうが勝率を上回っていたから、プロとしての生涯成績では彼女に対して勝ち逃げという形になる。そんなことは、毎年最多優勝で表彰される希代の女王のプライドが許さなかったのかもしれない。どれだけ強大な相手に出会ったとしても、頂点に到るまで自分を高めて戦い続けられることが、あの子たちの何よりの強さなのだから。
 こちらの受話口を壊す勢いで弁明を要求してくる和に対して、「うーん、もういいかなって思って」なんて力なく対応して、仕舞いには呆れさせてしまったそのときだったが。口には出さなかったけれど。彼女にそうやって文句を言われることがまた、私の選手人生を認めて貰っているようで、嬉しかった。

「このあいだは凄かったわね。私にもばっちり聞こえたもの」
「あれはあれで可愛いところなのよ。学生時代にもよく咬みつかれたわ」
 残り少なくなった湯呑みに美穂子がお茶を注いでくれている。二人でゆっくりテレビを観られる時間なんて、ここ数年はあまり持てなかった。

 噂をすれば影ではないけれど。ニュースの合間には、和が出演している発泡酒のコマーシャルが流れている。爽やかな青い海を背景に、恐らくは彼女好みであろう可憐なドレスを着て、「こんな発泡酒ありえません!」ときた。その姿は飽きるほど試合で見ているというのに、何度見ても彼女は美しいものだ。可愛い後輩、という贔屓目を否定してみたところで、なんの意味もない人気を事実として誇っている。
 世界でも屈指という実力は申し分ない上に、そのルックスゆえイメージを重視される場には引っ張りダコである和は、さながら客寄せパンダ兼メスライオンと言ったところだろうか。意外と気性の荒いところがあることは、多くのファンは知らないだろうけど。
 和はきっと、あと十年二十年経っても変わらずに輝き続けるのだろう。
 実力以外は和に及ばないながらも、それでも相当な人気を誇る咲のほうだって、学生時代と比べればちょっとは大人びたものの、まだまだ若々しく可愛いままである。咲を動物にたとえるなら、さしずめエトペンだろうか。いや、エト咲になるんだろうか。エトピリカになりたかった咲というのも、なりたかったはずがないのでなんとも不適切な略称だけれど、とにかく、和の胸に抱かれる対象がぬいぐるみのエトペンからすっかり生身の彼女になったのだということを、当の咲から聞いたことがある。大人になってぬいぐるみを必要としなくなった和は、外ではそんな素振りを見せないというのに、家の中では生身のエトペンから離れようとしないのだそうだ。
 それを聞いた当時、咲はよくキスマークを首にのぞかせたまま試合に出ていた。関連性は訊かなかったものの、あとから察するにはそれが、その話の根拠ということになるのだろう。
 なんにせよ見た目にはいまだ幼さを残しているとはいえ、二人ともよくぞここまで成長したものだと思う。あの二人は愛しい人と同じ舞台を一緒に歩んでいるのだから、この先もきっと、よい歳の取り方をするに違いない。
 宮永和と宮永咲。
 登録名こそ和は原村姓のままだけれど、本名のほうはずっと前に、すでに改姓している。
 訊けばどちらの姓にするかは麻雀勝負で決めたというのだから、出逢いから結婚まで麻雀に決められた、筋金入りの麻雀カップルというわけだ。
 学生の頃と少しも変わらない、充実した体力気力でお互いを高めあっている二人を思い浮かべながら、「若い子はいいわね……」なんて冗談めかしてつぶやいてみるけれど、隣にいる美穂子は「久と大して変わらないと思うけど……」と、テレビに映っていた女性キャスターと勘違いしたのだった。
 それでもさして意味は変わらないかもしれない。見た目は私と変わらないという今のキャスターにしても、私よりも若い気がしてならない。必要以上の老成はかつての家庭環境によるものか。プロ人生の晩年が正直どこかしんどかったのは、彼女らよりも中身の老け方が早いからなんじゃないかと思わなくもないのだ。
 一線を退いてお茶の間にいる今となっては、ひどいことにまともに動く気も起きず、美穂子が淹れてくれる緑茶を飲むことが私の日々の主なスケジュールとなっている。
 情けないことに、動く気が起きないのにトイレが近くなって、生理現象というものの押し付けがましい煩わしさに困っていたりもする。
「大人用紙オムツでも買ってきましょうか? それとも空のペットボトルがいい?」
 うずうずしている私を見て、気の利く美穂子が余計な気を回してくれた。
「今のでさらに老けた気がするわ……」
 どっこいしょと腰を上げて、ああもうだめだと思った。

 忙しい日々の終わりから、それほど時間が経っていないからだと思いたい。

 私が仕事を辞めれば当然のこと、私の収入はゼロになる。
 今は雑誌のインタビューなどで小遣い稼ぎぐらいはできているけれど、生業を失った竹井家はこのままだと将来的には、美穂子のパートぐらいしか安定した収入源がなくなってしまう。
 もちろん美穂子が働き方を変えて、家事と仕事の役割を交換するというのもひとつの手ではある。
 とはいえ私が一線のプロ雀士として稼いだ分は貯金としてだいぶ貯まっているため、良妻の手腕で適度に倹約しつつ暮らして行けば、無理に切り詰めずとも数十年は余裕で暮らせることだろう。しばらく働き手がいなかったところで、生活の質は恐らくそれほど変わらない。
 それについて、彼女はこう言っていた。
「今まで頑張ってくれたんだから、久はもう、休んでいいと思うのよ。今まで通り、家事は私に任せておいて。それでこれからは、私が養ってあげるから、安心して、ね?」
 これまで彼女が負担してきた部分だって、決して軽いものではなかったというのに。
 どこまでも甘く優しい美穂子さんは、すべてを彼女に委ねて、私にヒモになれと仰ったのだ。
 今でも大概、その居心地のよさには堕落する。
 愛は人を狂わせるのか。いまだ少女のように愛らしく虫も殺せないような顔をして、彼女は私を飼い殺そうとしている。そんな愛妻の尽くしぶりに骨抜きにされたなら、さながら私はナマケモノ。庇護の木にぶら下がって最低限のことをして生きていく。良いも悪いもない、ひとつの共生の形。
 私がヒモと化したなら彼女の負担は今よりも大きくなるが、私の暮らし方次第では、彼女は一人暮らしに等しい生活を送ることになるのだろう。機械ものを扱うこと以外に関しては非凡な能力を有する彼女であるから、ほぼ一人暮らしという状況にはなんの不都合もないに違いない。
 何もしなくていい。彼女がそう言ってくれるのであれば、それに甘えてしまっても、たぶん構わないのである。
 私が、そんな自分になりたいのであればの話だけれど。

 私はプロの世界においては天才と呼ばれるほど秀でてはいなかったが、凡才と呼ばれるほど埋もれる存在でもなかった。
 幸運なことに私は、努力という農作物の消化吸収率が高いほうであったようで、食べれば食べるほど結果に反映し、成果の数字は上がっていった。だが、少しばかり油断をした一年はさんざんな結果に終わった。不幸なことに私は、人並み以上の努力をし続けなければ一線で通用しない程度の才能だった。だから、空いた時間はすべて農耕に費やしてきた。
 訊いたことはないけれど、美穂子にはきっとさびしい思いをさせたと思う。
「ねえ美穂子。私が仕事に打ち込んでいるあいだ、さびしいとか思わなかった?」
「そうね。ときにはさびしさもあったけど、私は久が麻雀に向き合っている姿が好きだから」
「じゃあ、さびしいのは私なのね」
 自分の気持ちに嘘をついているつもりはなかった。
 でも。
「無理はしないで。久のことは、ずっと見ていたんだから」
 言おうとしていたことを、聞かずともわかっているとでも言うように。
 まるでこれまでずっと、私が無理をしてきたとでも言うように、彼女は、私を優しく抱き締めた。やわらかくて、あたたかくて、いい匂いがした。美穂子だ。私が最も愛する人だ。
 彼女にこんなに心配させてしまうほど、私はずっと、疲れた顔をしていたのだろうか。
「知らなかったわ。そんなに心配かけちゃってたなんて」
「知ってるわ。だってあなたは、そういうことをあまり口に出さないんですもの」
「けっこう弱みも吐いているつもりなんだけど」
「本当の弱さは隠したままよ。昔から変わらないの。そういうところ」
 数十億いる他人の中で、彼女は一番、私の近くにいたのだから。
 自分ではない彼女だからこそ、わかることもあるのかもしれない。変わらなければならない部分と、変わってはいけない部分。私よりも、彼女のほうがわかっているのかもしれない。

 私にはまだ、美穂子に伝えていないことがある。
 それは私の進化。新しい竹井久。
 あるいは進化の否定。今まで通りの竹井久。
「ヤスコの伝手でね、コーチにならないかって誘われてるのよ。久には人を育てる才がたぶんあるからって。きっと高校時代の実績を見て言ってるんでしょうけどね」
 我が母校は今や、世界ランク上位者を二人も輩出した部を持つ麻雀名門校となっている。結果的には、当時初めて全国進出を果たしたときの部長であった私は、相当な指導力を持っているのだと自負しても、言い訳ができる程度の妥当性は持ち合わせているのだろう。
 自惚れを許されるのなら、それだけで誘われたわけではないのだろうけど。
「それでもまだ、休んでいられるんでしょう?」
「しばらくのあいだは、ね」
「そう。それならよかった」
 表情から心配の薄らいだ彼女は、やおら私の手をとって自らの頬にあてると目を細め、
「近いうちに動物園に行きましょう」
 愛しげにそう言った。
「いいわね。生存競争の先輩がいっぱいだわ」
「ええ。肩の力を抜いて生きる、いい参考になると思うの」
「あなたの前では、いつだってそうだったでしょ?」
「でも、久はさびしかったじゃない」
「うん。美穂子がそばにいてくれなければ、私は潰れてしまっていたのかもね」
「そうやって誰かを口説けるのだから、私がいなくても大丈夫だったんじゃないかしら」
「そんないじわる言わないでよ」
 仕事ばかりで構ってあげられなかったから、やっぱり少しばかり彼女はすねているのかもしれない。たまにはご機嫌取りでもしなければと、伴侶への義務感を言い訳にした欲望で、私は彼女の服を脱がせようとした。
 服に指をかける前に頬にキスをして、耳元で「いい?」と囁くと、彼女は小さくうなずいて、頬へのキスを返してきた。皮膚から伝わる甘い刺激。さんざん私のものになっている彼女の唇には、心地よい痺れをくれる電流が今でも通っている。
「美穂子の唇はずるいわ。いつだって私に恋する切なさを植え付けてしまう」
「私を一目で虜にしたあなたが何を言っているの。あなたこそ、ずるい人よ」
 おとなしい顔に色付くその唇は、交わせば穢れを知らない無垢な少女のようでいて、重ねてきた歳の分だけ私好みの毒を流し込んでくる。彼女が狡猾な女狐でなかったとして、誰が私を誘い惑わせることができるというのだろう。
 私こそ彼女の檻に囚われたままの、哀れな恋の奴隷だというのに。

 情事の行なわれていた部屋はする前に温度を高くしたエアコンの熱気に包まれていて、どことなくいやらしい匂いが充満しているように感じられる。頭がまだ行為から覚めていないせいだろうか。
 気だるさのあまり服を着直すのも億劫な私は、下着一枚半裸のままあぐらをかいて呆けていた。すると毛布を持ってきた同じく半裸の美穂子が背後からおぶさってきて、自分ごと私を包み込んできたのだった。
 背中に感じる生美穂子さんの体温と、どこの部位か間違えようのない柔らかさ。ついさっきまで心ゆくまで重ねあっていたというのに、だからこそ私はこんなにも呆けているというのに。彼女の素肌は抗いようのない愛しさを運んでくる。
「こーら、みだりに私を誘惑しないの」
 うふふと笑う彼女。どうもはしゃいでいるような気がするのは、たぶん気のせいではないのだろう。ずいぶん後ろ髪を引かれるなと思っていたら、彼女が私の髪の毛で遊んでいたのだった。
「いじり甲斐のない長さでしょ?」
「おさげにできれば充分よ」
 妙に嬉しそうな声色で答えてくる。聞けば彼女の初恋の相手は、飄々とした犬のしっぽのようなおさげを携えていたのだそうだ。一目見たときからずっと想い続けていると彼女に言わしめるその相手とはいったいどこの馬の骨なのか。嫉妬心を抑えられない。彼女が好きになる相手なのだから、きっと彼女のことが大好きな人物に違いない。
「ふんふん」
 上機嫌で鼻歌を歌っている美穂子さん。おさげ以降も私の髪で遊び続けていた彼女を止めずに放っておいたら、戯れの三つ編みを経たあと頭の高い位置にしっぽを生やされて、昔の和のような髪型にされてしまった。
 私は長髪というほどではないから左右にぴょこんと出ているしっぽはとても短く、幼い女の子がするようなその髪型を手鏡で見せられたところで、あまりにも似合っていなくて痛々しかった。
「うあっ、これはきついわ……」
「えっ? どうして。可愛いじゃない」
「こんな女を可愛いと思える美穂子さんがおかしいです」
「それはそっくりそのまま久におかえしします」
 こんなに可愛いのに……とぶつぶつ文句を言いながら髪型を元に戻す美穂子さん。私は意に介さず、そろそろ二人とも服を着たらどうなのかしらとぼんやり考えていた。
 心も体も温度でいえば、じゅうぶんに暖かいけれど。

 心安らかな暮らしに必要なのは、衣食住と電気ガス水道。
 そして。
「ちょっとトイレ……」
「必要なのは紙オムツ? ペットボトル? なんならこのコップにしてくれても」
「美穂子さんあとでお説教ね」
 餌をやりすぎるほど甲斐甲斐しくお世話をしてくれて、優しい心であやしてくれる愛しい人。
 うっかりすれば肥えてしまいそうになるその愛は、私でなければ受け止め切れないことだろう。
 だから私は偏食家の人間で。美穂子はきっと、私だけの飼育員なのだ。

<了>

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