咲-Saki-SS『竹井さん家の上埜さん』

「それでその人いきなり結婚してくださいなんて言うのよ。冗談じゃなくて真面目っぽかったから丁重にお断りしたけど、ドラマなんかだといいシチュエーションでも、こっちにその気がないときにああいうこと言われると困るものね」
「ろくに話したこともないのにそんなことを言われるだなんて……、久は誰にでも馴れ馴れしくしすぎなのよ」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるの、学生時代だって」
「ないってば」
「……自覚がないのね」
 仕事が終わって自宅でのひと時。美穂子の手料理を頂きながら今日の出来事を語っていると、それは美穂子にとってあまり愉快な話ではなかったらしく、何かを考え込むような難しい顔になってしまった。
 彼女が大学を卒業してからそれぞれ同じマンションの隣室で暮らし始めた私たちだけれど、互いの部屋の壁はあって無いようなもので、いつもどちらかの部屋で就寝を含んだ生活をしている半同棲状態だったりする。合い鍵だって持っているぐらいで、実際、帰ればこうやって夕飯の支度をしてくれているわけで。私だって美穂子との仲が事実上の恋人関係にあることぐらいは自覚しているのだから、そんじょそこらの求婚を承諾するようなことはないと、彼女もわかってくれていると思っていた。まだ相互理解が足りないのだろうか。
「私が誰かの求婚を受けるとでも思ってる? せめて美穂子ぐらいの仲じゃないとありえないから」
「ええ、そうね」
 さりげなく求婚に等しい言葉をかけたつもりでも素っ気ない返事。二人の関係の終わりを危惧しているのかと思ったのだけれど、本当に理解が足りていないのかもしれない。彼女が何を考えているのか、まるで見当がつかなかった。
 その夜はいつものように同じベッドに入っても、キスのひとつもさせてはくれなかった。「今日はだめ」と穏やかに断られたので、怒っている風ではないようだった。彼女の真意を計りかねる寝苦しい一夜だった。

 翌日になっても彼女のつれない態度は変わらなかったが、朝ごはんの質も変わらなかった。二人の間がこれだけ妙な空気になるのは初めてのことで、このまま家を出たらもう二度と会ってくれないのではないかと不安になるような不自然さだった。だから私がどれだけ彼女のことを必要としているかをはっきり示したいところだったけれど、彼女とのわずかな距離を縮めようとする足が動かなかった。いつもは余程のことでもなければ恐れなど感じることはないというのに、慣れているはずの軽い一歩が踏み出せない。人の深い部分には臆病なのだと知って、自分でも意外だと思った。気付いたところでもう遅いだろうか。まさか、愚かな発想だ。そんな極端な話は絶対にないはずだと言い聞かせて自分を安心させても、初めてのことに動揺した心は一向に鎮まらなかった。
 その日の朝は、玄関まで見送ってくれる美穂子に「行ってきます」の一言をかけるのが精一杯だった。彼女はちゃんと笑顔で送り出してくれた。
 私はちょっと泣きそうだった。

 家庭と仕事の両方に行き詰まりを感じ、頭のなかで光明を探しながら夜道を歩く。いっそ遠回りをしたいところだったけれど、一刻も早く彼女に会いたい気持ちもあったので、そこまでゆっくりしている余裕はない。
 今日の麻雀の成績は散々だった。美穂子のせいだ。いや、私のせいだ。私が彼女を傷つける何かに気付けない盆暗だから、結果的に自分の不利益になってしまっているだけなのだ。ある意味ではフェアといえる。フェアであるなら挽回も可能だろう。もし彼女が待ってくれているのなら、こんな私にもう一度だけ機会を与えてくれるというのなら、今夜はお互いの気持ちを丸裸にするまで語り合おうと思う。明日の仕事なんてどうでもいい。場合によっては辞めてしまってもいい。美穂子さえいてくれるなら、他のことなどいくらでもやり直せるのだから。
 鍵を開けると、部屋には明かりが点いていた。美穂子はいるのだろうか。それとも点けっ放しなのだろうか。
 居間のテーブルに誰かがいる。あの見慣れた背中のシルエット。
 見間違えるはずもないが、振り返ったその人物は――

 誰、と形容すれば……。

 見つめられただけでお持ち帰りしたくなるような、大きくて綺麗な異色の双眸。不躾に撫でたくなる柔らかな頬。キスすると余計に渇いてしまう潤いのある唇。手入れの行き届いた艶のある髪の毛を、珍しくまとめておさげにしている。私にとってはずいぶんと懐かしい髪型でもある。そして最も特徴的なのは、胸のあたりがやや窮屈そうな私の服だ。それは今まで私以外に着る者のいなかった服で、それを彼女は着ている。
 得られた情報から察するに、恐らく彼女は私なのだ。つまり、どこからどう見ても美穂子にしか見えない私が私の目の前にいるのだ。
 この状況、どうすればいいのか。
 おかえりなさいの一言もない。少なくとも今までと同じ関係ではないらしい。
 仮に別人扱いをするにしても美穂子の方にそのつもりがなかったとするならば、それは彼女がその程度の変化で別人になりきるつもりなのだと侮っていることになり、私が普段彼女のことを浅はかな人間として見ているのではないかと疑念を抱かせる結果になるかもしれない。
 しかしもし、これで別人になりきるつもりでいるというのなら、私としては合わせる方向でいってしまいたい。生真面目な彼女のことだから考えなしにこんなことをするとは思えないし、きっと二人のことを考えて行っているのだろうから、その気持ちは尊重したい。
 なにはともあれ確認のために、彼女が誰であるかを訊いてみることにした。
「えっと……竹井さんよね?」
「いいえ、上埜さんです」
「あ、上埜さんなの……」
 どうやら彼女は上埜さんらしい。中学時代の私と奇跡のご対面だった。自己紹介で自分に敬称をつけるところがどうしようもなく美穂子さんだと思った。
「それで、その上埜さんは何をしているの?」
「竹井さんがここに住んでいると聞いて待っていたの。初めまして、上埜久です」
「どうも、竹井久です」
 鍵のかかっている自宅の中で待っている他人とはどういう設定なのか。とりあえず泥棒ではないらしく、彼女と私は初対面であるらしい。
「久っていうのね、素敵な名前だわ。カタカナのクに一本線を足したような奥深さを感じるわね」
 こそばゆいし褒め方がおかしい。上埜さんはそんなキャラじゃないと思う。
「さあどうぞここに座って、いまお夕飯を出すから」
「じゃあまあ遠慮なく、ご相伴に預るわ」
 彼女が対面の席を勧めたので座ることにする。設定の上でもここは私の家であるはずだが、どういうわけか彼女が夕飯を仕切っている。初めて来た家でこの振る舞い。上埜さんとやらはただものではない。
 そして出てきたのは、いつもの美穂子が作ったと思われる隙のない料理群だった。
「あー、上埜さんてこんなに料理うまかった?」
「ごめんなさいインスタントなの」
「インスタント……?」
 こんな高級レストランで出してもおかしくないインスタントがあるか、と思わずつっこみそうになってしまったけれど、どうにか思いとどまった。
 仮にそう見える盛り付けをしたところで、いったいどれだけ手間がかかるものだろう。どう考えても忙しい人や料理下手な人がすることではないし、それなら出前をとってしまったほうが手っ取り早い。どうも今回の設定には隙が多いらしく、言ったあとで迂闊な発言に気付いたのか、さすがの美穂子もはっとして口に手をあてている。
「最近のインスタントはすごいわね」
 重要な事柄ではないと判断したのか、彼女はそんな風にごまかした。どこがポイントなのかいまだにわからない。ただのごっこ遊びなのだろうか。
 食事の最中に進めることは何もなかったのか、その間の彼女はまるっきり美穂子だった。
 気が気ではなかったが、彼女の料理はいつも通り美味しかった。

 食事を終えると美穂子は私の隣へと席を移し、またも妙なことを言い始めた。
「久の食べっぷりって、虫の入った琥珀みたいに鮮やかね」
「上埜さんの言っていることがわからない」
 微妙に既視感を覚える彼女の発言ではあったものの、私はこれほどわかりにくい比喩を用いたことはない……はずだ。
「久はプロ雀士なんでしょう? ぜひ一度お手合わせ願いたいわ」
 と言いながら私の肩を抱き寄せる彼女。上埜さんというのはそんなに気安くボディタッチをする人物だっただろうか。
 しかしなんとなくわかってきた。彼女は恐らく、私の真似をして私を口説いているのだ。設定上私は初対面の人間なのでこれは美穂子と私の間柄ではなく、あくまで普段、私が他人にとっている態度を再現しているのだろう。少し、いや、だいぶ誤解があるようだけど。人のふり見て我がふり直せ、みたいなメッセージなのかもしれない。
 そのふりを直させることが彼女にどんな利益をもたらすのか、いまひとつわからないけれど。
「麻雀、あなたは学生時代でやめてしまったものね。もし続けていたら、あなたのほうが強かったかも」
「あら、もう勝った気でいるの? 私だって全くやってなかったわけじゃないのよ。それに、高校のときの個人戦を忘れたのかしら」
 案外挑発に乗りやすい彼女は勝負の世界にいた頃の気質を取り戻したのか、完全に美穂子に戻っていた。こういう単純なところがとても可愛らしいと思う。
「ごっこ遊びはおしまい?」
「あっ……ねえ、このあとちょっとホテルに行きましょうか」
「美穂子さん、いくらなんでもこの流れで私はそんなこと言わない。しかも軽く爆弾発言」
「あう……」
 計画の完全なる破綻を悟ったのか、急にしゅんとして気勢をそがれた様子の美穂子。
「どうしたのこんなことをして。昨日のことよね?」
「だって、久が……」
 すでに半泣きである。
 私は努めて穏やかに、優しく彼女に問いかける。
「私が、なに?」
「他の人にとられてしまいそうだから」
「どうして?」
「みんな久のことを好きになってしまうから、私より素敵な人なんていくらでも現れてしまうから」
「それで? 私から美穂子が身を退くの?」
 美穂子は首を振る。
「じゃあ私が美穂子のことを捨てるの?」
 美穂子は頷いた。
「誰にでも自然に近づいてしまうあなただから、いずれ最高の人と出会えば二人はきっと惹かれあってしまうわ。だからそうならないように、私以外からは距離を置いて欲しかった。せめて普段のあなたの言動を知って欲しくて……」
「こんなことをした、と。結構お互いわかっていないものね」
 私がそんなことをするはずがない。少なくとも現在までの私はそう言い切れる。でも、そんな私によって彼女が不安を抱いていたことに、私は気付いてあげられなかった。
 人の関係とはままならないものだと改めて思い知らされる。これが人の弱さであり、恐らくは強さでもあるのだろう。こういったある種の刺激を有効に活かすことで、人の関係はより深くなっていくはずなのだから。このすれ違いには意味があるのだと、そう信じられる人間だけが手に入れられる大切な存在がここにいるのだから。それを絶対に手放さないという気持ちはある結果を貪欲に求める意志であり、掴むまで諦めないことにより出る結果が同じであるならば、それは運命と言い替えてもいい。
 私には彼女との運命以外、とても考えられない。
 有体に言うなら、愛している。それはもう自分でも呆れるぐらい。
「確かに他の人にも惹かれてしまう可能性が全くないとは言い切れないけれど、だからといって、これまで一緒に過ごしてきた大切な美穂子を失って耐えられるほど私は強くないの。私があなたをどれだけ大切に思っているか。こんなことをするぐらいだから、きっとあなたも同じでしょう?」
「久……」
「伝わっていなかったことは善処するから、これからも私と一緒にいて、私を離さないで、美穂子」
 美穂子が大学を卒業してから数年、共に過ごした時間はそれなりになるはずなのに、想像を遥かにずれていた二人の心がそう簡単に矯正できるものなのかはわからない。
 それでも、これだけ近い二人がさらに歩み寄ろうとしたならきっと、これまで以上にお互いを感じられるに違いない。
 彼女の腕を掴んで引き寄せる。抵抗はなく、一日ぶりの彼女の唇はとても気持ちがよかった。
「美穂子以上に魅力的な人なんて、いるのかしらね」
「いるわ、きっと」
「でも、その人が美穂子に惹かれる可能性だってあるのよ?」
「それでも私は、久が好き」
「うん、私も一緒だから」
「そんなことを言って……後悔しない?」
 私の首にしなやかな腕を回して、今度は美穂子のほうから唇を求めてきた。
 触れ合った舌からは彼女の手料理の味がした。
「ん……ごめんなさい久……明日はきっと寝不足だわ」
 上気した頬。潤んだ瞳で挑発的なことを言う。
 私としても、美穂子を寝かせる気はなかった。
 明け方を過ぎる頃には、ちょっとだけ後悔していた。

<了>

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