咲-Saki-SS『理不尽な彼女』

「ねえ和、ちょっと気になることがあるんだけど」
 部室のパソコンで各部員のデータを見ていた部長が、なにやら私に用事のようです。
「はい? なんですか」
 対局順番待ちの時間潰しに読んでいた参考書を閉じて、部長のもとへ。
 私の打ち方に、なにか問題でもあったのでしょうか。
「咲がカンしたあとのあなたの打ち方なんだけど、これって意図的にやっているのかしら?」
「意図的にやってないことなんてありませんよ」
「それならいいんだけど、見てごらんなさい」
 部長はそれまでモニターに映っていたデータを再現リプレイに切り替えて、宮永さんがカンするところから流し始めました。
 改めて自分の打ち方を見たところで、この対局には別段おかしいところは……。
「……あ」
「気付いた? これ、ついさっきの対局よ」
 宮永さんがカンしたのはまだ序盤だというのに、カンされて以降、私はずいぶんと消極的な打ち方をしています。
 というか、すでにベタオリ状態です。
 あろうことか序盤のたった一鳴きで、すでにアガリを放棄しているのです。
「こんな打ち方……」
「でしょう? でもこの対局では、それが正解だったのよね」
 リプレイを宮永さんの視点で見ると――
 アンカンしたあと宮永さんは、有効牌を引いてすでにテンパイという状態。
 役牌ドラアンコを持っているからリーチはせず。
 待ちは、私が持っていた二枚の老頭牌のシャンポン待ち。
 私の手では孤立していたそれらの牌は、攻め続けていたら確実に切って振り込む結果となっていたことでしょう。
 部長の言うとおり、ここではオリることが最善の打ち方だった。
「だからって、私はここで、どうしてベタオリなんか……」
 点差としても、できる限り攻めていきたい状況でした。
 結果的によかったところで、それは所詮結果論。
 理由なしにオリることなど、いつもの私ならありえません。
「こんな打ち方、あなたがするわけないものね」
「はい」
「咲と一緒に打つようになってから、もうだいぶ経ったわ。きっと和は、咲の力を恐れているんじゃないかしら。それも、無意識のうちに」
「無意識の、うちに?」
「覚えてないんでしょう?」
「それは、そうですけど……」
「あなたが確率と効率のみを頼りに打つ堅実な打ち手だってことはわかっているわ。でも、咲の力を目の当たりにしているうちに、知覚できない情報を認めてしまったのかしら? いつのまにかあなたも、知らない感覚に頼ってしまっていたのね」
 そう……かもしれません。
 宮永さんとは、まだ運で説明できる程度の回数しか打っていないとはいえ、認めがたい場面を何度も見てしまったことは事実であって、そのことに、まったく心が揺れなかったといえば嘘になります。
「私が、宮永さんの力を恐れている……」
「あなたのその弱さは、これからきっと、とても大きな弱点になってしまうわ」
 宮永さんのような力の持ち主が、他にも……。
「私はいったい、どうすれば?」
「あなたは今のままで充分魅力的な打ち手よ。だからそのままでいいの」
「でもそれじゃあ!」
「恐れを消すだけでいい」
「恐れを……?」
「数字では理解できない未知の力の恐怖。それがあなたを惑わせているのだから」
「まさか、お化け屋敷にでも行けと言うんですか……?」
「いいえ。まあ、あなたの場合はそれも有効かもしれないけれど……」
「絶対嫌です」
「でしょうね。そっちは無理強いしないわ。部を辞められても困っちゃうし」
「別に、辞めませんけど……。じゃあ、何をすればいいんですか?」
「咲をね、もっと知りなさい」
「宮永さんを?」
「あの子は確かに、運の一言では片付けられないくらい強大な力を持っているようだわ」
 宮永さんのカンに関する確率。
 麻雀という競技そのものを破壊してしまいそうな力。
 私は、理解できない彼女のことを、恐れている……。
「だけどね。だとしてもあの子は、あなたと同い年の、普通の女の子なのよ?」
「あっ……」
「ね?」
 部長の言いたいことが、なんとなくわかってきました。
 私は彼女のことを、もっとちゃんと見なければならなかったのです。
 麻雀のライバルとして。そして、大切な友達として。
 たとえ宮永さんに特殊な力があるとしても、彼女は彼女で、私は私。
 どちらも自分の打ち方を信じて打っているのだから、迷う必要など、どこにもないのです。
 彼女がカンをしても何をしても、私は私のやり方で応じるだけ。
 それだけきちんと胸に刻んでおけば、きっと、大丈夫。
「部長、ありがとうございます。なんだか私、すっきりした気が――」
「だから和はしばらく、咲と一緒に暮らしなさい」
「――は?」
 それからのやりとりは、ほとんど記憶にありません。
 部長のあまりに突飛なダブル役満級の発言は、私の思考を完全にトバしてしまったのです。

 宮永さんのお父さんと私の両親には、すでに許可を貰っていたようで。
 用意周到すぎる部長は、件の放課後の時点で、すべての準備を整えていました。
 部室のある旧校舎から直行。歩いて30分ほどの距離にあるウィークリーマンション。
 その三階にある一室で、私と宮永さんは、一週間、同棲――いえ、共同生活を送ることになりました。
「わぁ、家具とかは備え付けなんだね」
「え、ええ……」
 1Kというその一室には、生活に必要な物のほとんどが備え付けられているようでした。
 家に帰らずに来たのですから、そうでなければ困りますが、替えの服や下着なども用意されているというのは、部長はいったい、部費をいくら使ってしまったのでしょうか。どれもお古には見えませんし、着替えてみると、サイズもぴったり。
 というか、制服の替えまであります。やはりサイズはぴったり。ありえません。
 さらには教科書の類まであります。至れり尽くせりにもほどがあります。
 もしや学生議会長という立場と信頼を使って集めた、黒っぽい物品の数々なのでしょうか。
 そう考えると、憤りを感じるほど部長を問い詰めたくなった私ではありましたが……。
「とりあえず……お夕飯にしましょうか」
 今日はもう、なんだか疲れてしまいました。
「うん。でも食べられるもの、なにかあるのかな?」
 困った様子を微塵も見せず、この状況を楽しんでいる様子の宮永さんが冷蔵庫と冷凍庫を開けると、なかにはたっぷりと食材が詰まっていて、一週間とまではいかないものの、三日ほどは買い足さなくてもいいぐらいの量が入っていました。
「そうだ、食事当番とか決めないとね? 交替がいいかな、それとも役割ごとに固定しちゃおうか?」
 共同生活にやる気を見せてキッチンに立ち、張り切ってエプロンを身に付けている宮永さん。
 エプロンの下には用意されていた衣服。それはたとえ真夏の暑さにも耐えられる軽装であって。
 とても短く活動的な腰部の素材と、そこから伸びるやたら扇情的な肌色に。
 着衣というのはその組み合わせによって、刺激が極端に強くなることもあるのだなと。
 思わず、目を逸らさずにはいられませんでした。
「……交替が無難ですね」
「そうだね、じゃあ今日のお夕飯は私が作るから、原村さんはゆっくりしてて」

 お夕飯を終えて、うとうとしながらテレビを見ていると、お風呂場からシャワーの音が聴こえていることに気が付きました。テレビも番組が変わっています。どうやら私は、しばらくうたた寝をしていたみたいです。
 眠気はまだ覚めていないことですし、今日のところはこのまま休んでしまいましょうか。
 そんなことを思いながらあくびを噛み殺していると、眠たいときには時間が過ぎるのが早いもので、宮永さんがお風呂場から出てきました。
 バスタオル一枚、巻いて。湯あがりの火照った彼女の体には、わりと冷静な私です。
 まったく知らない仲じゃあるまいし。といったところです。
「あ、起きた? 原村さんも入ってきたらどうかな。広くはないけどキレイなお風呂だったよ」
 隣に座り、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、石鹸の香りをふりまく宮永さん。
 キレイなのはお風呂じゃなくてあなたです。とか。
 意思とは関係なく言ってしまいそうになる、悪質な無防備さです。
「私は今日はやめておきます。ちょっと、風邪気味な気がしますし」
「そうなの? 熱、ない?」
 そう言って宮永さんは、私の前髪をかき分けて、おでことおでこをお見合い状態。
 ご趣味は? ――そんなこと訊かないでください!
「熱なんてありませんよ……!」
「ひたたたた、ひたいよ、あらうらはんっ!」
 あまりにも自然で無遠慮な彼女の振る舞いに。
 あるいは、その程度で動揺する自分自身に。
 理不尽な腹立たしさを覚えた私は、宮永さんの両の頬を、思いっきり引っ張ってしまいました。
「う、うん。元気そうだから、大丈夫だね」
 頬をさすりながらも、微笑む彼女。
 出会った頃はもう少し、おとなしいタイプだと思っていたのですが。
 まったく実際は、こんなにも無邪気な、女の子でした。

 結局眠気が覚めてしまい、軽くシャワーだけ浴びることにした私だったのですが。
 いざ就寝となったところで、ベッドがひとつしかないことに初めて思い至りました。
 疲れで、頭が回っていなかったのでしょうか。
「そういえば、ベッドひとつしかないね」
 床で寝るにしても、これといって敷くものがなく、寝心地は相当悪そうです。
 そして脳裏をよぎる言葉――不純同性交友。
 いいえ、なんのことはない。これは簡単な問題です。
 実に単純なこと。二人でひとつのベッドを使うだけ。
 なんでも不純に結びつけることは、その思考自体が不純なのですから。
「一緒に使えばいいだけじゃないですか。これだけの広さがあれば、二人なら余裕です」
「そうだよね。うん、一緒に寝よ!」
 同衾が決まると、宮永さんはベッドにダイブ。奥でごろごろうつ伏せになって、隣のスペースをポンポン叩いています。
 本当に、無邪気なものです。
 もうひとつの枕は、タオルを丸めて代用しましょう。
「失礼します」
 電気を消してから私も続いて寝転がり、タオルケットで二人の空間を温室に。
 やっぱりおかしいことなんて何もない、ただの共用です。
 いくら無邪気な宮永さんだって、眠ってしまえばただの女の子なのですから。
 ほら、もう彼女の寝息が聞こえます。寝つきがよくて助かります。
 あとは、私が眠るだけ。
 ……。
 ふと目を開けてみると、彼女はこちらを向いて眠っていて。
 暗闇にうっすらと見える、その寝顔は――

 ……カワイイ。

 私はまぶたが自然に閉じられるまでの間、彼女の愛らしい寝顔をずっと、見ていました。

 ……。

 ……。

 ……。

「――さん」

 優しく揺さぶる手の感触。気持ちが良くて、夢心地です。

「――村さん。もう起きないと、遅刻しちゃうよ?」

 むらさんって誰のことでしょうか。

 ――チュンチュン。

 ……起きないと? ……遅刻?

 ――チュンチュンチュン。

 徐々に覚醒していく聴覚に、降り止まない雨のような鳥たちの輪唱が聴こえてきました。

 ――チュンチュンチュンチュンチュンチュン。

 この感覚は……朝です。

「えっ」
 いつもの目覚ましではない起こされ方に、尋常ならざるものを感じて飛び起きると、案の定、時計は大変難儀な時間を告げています。
「もうこんな時間……!?」
「おはよ。今から支度すれば大丈夫だよ」
 すでに支度を済ませている様子の宮永さんが、櫛で私の髪を梳かしながら、私の現状を説明してくれます。
「目覚ましでも起きないなんて、原村さん、今日はずいぶんお寝坊さんだね」
 こんなことはもちろん初めてです。
 私は昨日、いったい何時まで彼女を見ていたというのでしょうか……。
「朝ごはんできてるからね」
 髪に気を使っている時間こそありませんが、その他はどうにかなる時間。
 甲斐甲斐しい彼女がいなければ、確実に遅刻していたことでしょう。
 もっとも、彼女がいたからこんな状況になっている、とも言えるのですが……。
 とはいえ、彼女の声で起きて、頼りがいのある彼女を見られるこんな朝。
 こんな慌ただしさなら、たまには、いいかもしれません。
 そんなことを思ってしまう、今日の始まりでした。

 当然のごとく、授業中は眠くて仕方がありませんでした。
 どうにか耐えてお昼を迎えると、私はふらふらになりながら、お弁当を持って外に行きます。
 お昼は麻雀部の一年生みんなで食べるのが、すっかり習慣になっているのです。
「うおっ、のどちゃんクマできてるじぇ!?」
「うわっ、和どうした!?」
 草むらに敷かれたシートの上で――途切れそうな意識を気力でつなぎながら、宮永さん謹製のお弁当を食べます。
 おやすみなさいをするのは、お昼を食べてからです。
 事情を知っている宮永さんは、とくに何も言いませんでした。
「咲ちゃんとのどちゃん、お弁当の中身が一緒だじぇ?」
「あれ、ホントだ」
 どうやらゆーきと須賀君は、私たちのことを部長から聞いていないようです。
「そういえば和の髪形が、やや乱れつつも流れるようなストレートになっている……、そして二人の弁当が同じ……、加えて目の下のクマ……ということは、これはつまり」
 なにか須賀君が、今までにない推理力を働かせているようです。
 すごく眠たいので、どうでもいいのですが。
「夜遊び……お泊り……はっ! 不純異性交遊!」
「不純同性交友です! いえ、不純でもありません!」
 不純な気持ちも、まあ、ないこともありませんが。
 余計な訂正で、気力をだいぶ削がれてしまいました……。
「もしかしてのどちゃんは、咲ちゃんちに泊まったのかー?」
「泊まったというか、なんというか……」
「私たちね、いま一緒に暮らしてるんだ」
「な、なんですとっ!」
 宮永さんの説明に驚く二人。息ぴったりです。
「仲がいいとは思っていたが、まさかそこまで関係が進んでいるとはオレも思わなかったぜ……」
「のどちゃんも、ずいぶん遠くに行ってしまったもんだじょ……」
 誤解を解くのが面倒なので、もうそれでいいです。
「なんか部長からね、麻雀のために一緒に暮らしなさいって言われたんだ」
 私が説明を放棄すると、宮永さんが代わりに言ってくれました。
 宮永さんと一緒だと、私はもしや怠惰になってしまうのでしょうか。
 いえ、ただ単に、眠気で余裕がないだけでしょう。
 もう、目を開けているのも辛い。
 そんな倒れそうな状態をわずかな気力で保っていると、持っていたお弁当が不意に取り上げられて、私の体は意図的な力で倒されました。
「原村さん、少し眠るといいよ」
 優しい彼女の膝の上で、私の意識は数秒と持ちませんでした。

 宮永さんのおかげで、午後の授業は問題なく受けられました。
 共同生活期間中は二人とも部活休止ということになっているため、部活はありません。
 お弁当を満足に食べられなかったのでやや空腹ではあるものの、すでに帰りの時間なので問題はないのです。
 昨日の晩からの三食は宮永さんに任せてしまったので、今日のお夕飯は私が作らなければならないでしょう。
 帰り支度を終えた私は、何を作ろうか考えながら廊下に出ました。
 一緒に帰ろうと思って宮永さんのクラスに行こうとすると、ちょうど彼女も私のもとに来るところでした。
「原村さん、私これからまだやることがあるから、先に帰ってて」
「はい、わかりました。あ、今日のお夕飯は任せてくださいね」

 ――ざわ。

 ……一瞬、廊下が騒がしくなりました。
 帰りの生徒で賑わっているのとは、また違う種類の騒がしさです。

「わあ、楽しみだな。一緒に暮らすっていいね。私、いまの生活すごく楽しい」

 ――ざわざわ。

 誤解を招いていることがわからないほど、私も察しが悪いわけではありません。

「あの、宮永さん……」
「じゃあね。今日も一緒に寝ようね」

 ――ざわざわざわざわ。

 もしかしてあの子は、わざとやっているのではないでしょうか……。

 ――原村さんって、もう彼女いるんだ。

 ――え? それって会長じゃなかったの?

 ――わたし絶対、会のどだと思ってた。

 ――まさかの、さきのどだよ……。

 ――わたしの原村さんが、あんな地味な子に……。

 無秩序な噂が伝播しています。
 なにしろ事実が突飛な内容なので、下手をすればさらなる誤解を生む可能性があります。
 情報が錯綜しているこんなところで訂正する気なんて、とても起きません。
 今日は、早く帰りましょう……。

 人の気配がしない家。
 そんな場所に帰るほうが慣れている私ですから、落ち着くといえば落ち着くのですが。
 慣れない部屋で待つとなると、感じ方も異なるものです。
 早く帰ってきて欲しい。
 退屈と遊ぶようにそんなことを思うのは、いつ以来でしょうか。
 彼女が帰ってこようとも、お夕飯の時間にはまだ早いというのに。
 理由がなくても求めてしまう。
 人恋しさ、というものでしょうか。
「ただいまー」
 ……帰ってきたようです。

 お腹が空いたと彼女が言って、お夕飯の準備が整いました。
 私たちは向かい合ってテーブルにつき、料理を口へと運びます。
「やっぱり美味しい! 私、原村さんの味って大好き!」
「そ、そうですか? これぐらいなら、毎日作ってあげますよ」
 照れ隠しも兼ねて、ついついそんなことを言ってしまいました。
 自分でも、わりとすごいことを言っているのではないかと、言ってから思いましたが。
「うん、毎日食べたい。こんなふうにずっと一緒に暮らせたらいいな、原村さんと」
 それ以上のことを、彼女が真面目に言うものだから。
「……お弁当で我慢してください」
 私は心にもないことを、言ってしまって。
「ざんねん」
 どこまで本気なのか。それとも、私の勘違いなのか。
 彼女のおどけた一言には、無邪気さの他にも。
 彼女らしくない大人っぽさが含まれてるように、感じられたのです。
 私の知っている彼女といえば、麻雀の才には溢れているけれども、その他のことになるといつもどこか頼りなくて、実際ひとりにするにはとても不安で、同い年なのに、まるで年下のような印象もあるぐらいだったのですが。
 こうやって一緒に暮らしてみると、意外にも彼女は世話好きといった様子で、頼りにもなりますし。
 なにより、私の気を引く才に溢れているものだと、つくづく感心させられます。
「原村さん、ストレートも可愛いね」
 ほらまた。
「明日は……ちゃんと起きますよ」
 不機嫌を装わないと、お夕飯ものどを通らなくなりそうです。

 その日の夜は、とくに問題は起こりませんでした。
 トイレに起きた宮永さんの膝が、私のお腹に直撃した程度で済みました。

 共同生活から三日目の朝。
 目覚まし時計が鳴って数秒。今朝はちゃんと起きられました。
 宮永さんはまだ寝ています。目覚ましを少しあとの時間にセットして、私は朝ごはんの用意をすることにしましょう。
 三日目ともなると、そろそろ食材を買い足さなければならないようです。
 今日の夕方は二人でお買い物でしょうか。
 ここでの全財産は、二人のお財布に入っている額がすべてですが。
 私のお財布に入っている十万があれば、この期間中は大丈夫だと思います。残っている食材は惜しみなく使ってしまいましょう。
 というわけで、朝は軽すぎず重すぎず、眠気を引きずる子が爽やかに目覚められるような料理を作りました。もちろんお弁当も、抜かりはありません。
 作っている最中に起きた宮永さんは、まだ覚醒しきってはおらず、ベッドの上に座っています。
「おはようございます、宮永さん」
「おはよぉ」
「はい、口を開けてください」
「……ふぇ?」
 私はお皿に乗せたばかりの料理を一口分お箸でつまみ、宮永さんに食べさせます。
 もぎゅもぎゅ満足そうに食べる宮永さんを見ていると、このまますべて食べさせてあげたくなってしまいます。
「おいしー」
「そうですか。よかったですね」
「うん」
 まだ寝惚けているのか、反応がまるで子供のようです。
 昨日までとは別人のようですが、これも彼女の一面なのでしょう。
 正反対といってもいい変わりようなのに。
 どっちの彼女も、なかなか魅力的です。

 妙な噂が広まっている学内は、あまり居心地がいいとはいえません。
 でも、噂なんていずれは収まるものです。気にするほどのことではないでしょう。
 周囲のひそひそ声が気になる以外は、問題なく過ぎた学校での時間。
 放課後には宮永さんと一緒に帰り、家で着替えてから、二人でスーパーに行きました。
「なにか食べたいものとか、ありますか?」
 私はショッピングカートを押しながら、そばにいる宮永さんに問いかけます。
 そういえば私は、彼女の好きな物を知りません。
 せっかくですから、ここで挙げられたものは覚えておきましょう。
「うーん、原村さんの作るものならなんでもいいよ?」
「またそんなことを……」
 買う物を絞りたいから訊いているのに、なんでもいいで返されるのは困ります。
「ほんとだよ?」
「それじゃあ、毎食ねこまんまでもいいんですか?」
「う、うー、それは困るかも」
「ふふ、冗談ですけどね」
 ささやかな意地悪をしたあと、ゆっくり店の中を回って、食べたい物を二人で選んでいきました。
 複数の買い物袋をさげて家に戻る頃には、二人とも理想的な空腹状態でした。

 それはお夕飯と洗い物を終えて、二人で思い思いくつろいでいるときのことでした。
 私がベッドに寝転がって雑誌を読んでいたところ、テレビを見ていたはずの宮永さんもベッドに寝転がってきて、そのままくっついてきたのです。
「どうかしました?」
「ううん、なんでもない」
 そう言いながらも、仰向けになっている私を抱き枕にするように、その腕は乗せられます。
 それ以降特になにをするでもなく、ぴとっとくっついて、寝るでもなくじゃれるでもなく。
 お姉さんが大好きらしい宮永さんは、本質的には甘えん坊なのかもしれません。
 本人もなんでもないと言っていることですし、放っておいてよさそうなので、少々落ち着かないながらも好きにさせておくことにしました。
 それからしばらくして、もうすぐ雑誌を読み終えてしまう頃。
 ずっとおとなしかった宮永さんは、私に回した腕にぎゅっと力をこめると、私の頬にちゅっと唇を触れさせました。
 動揺などはありませんでした。してあげませんでした。
 ただ――

 こういうことをするんですね、この子は。

 と、思いました。
 私は雑誌を手放すと、彼女の頬に仕返しをしました。
 もちろん二倍返しです。
 すると、報復の連鎖は泥沼化の様相を呈してきて。
 少しずつ増えていく頬へのじゃれあいは、いつのまにか、どちらがより押さえつけてキスできるかの勝負になっていました。
 身体的な力ではさして差のない私たちですから、勝敗は拮抗。
 静かな部屋には二人の笑い声だけが響いて、汗だくの体は暑さすら忘れていて。
 勝負は、二人が疲れてくたくたになるまで続きました。
 その夜はもうシャワーを浴びる余力など残っていなかったので、たくさん汗をかいた体は着替えだけで済ますことにして、二人の汗の匂いが交錯するベッドの中で私たちは、夢の世界に沈むように眠ったのでした。

 四日目の朝は目覚ましが鳴る前に起きました。
 シャワーの分だけ時間を要する今朝ですから、ちょうどいいのですが。
 あいにく今日と明日はお休みなので、そもそも目覚ましをかけていないのです。
 つまり特別早くもない、普通の朝です。
 もう少し寝ていようかとも思いましたが、宮永さんが起きる前に、汗を流しておくことにしました。
 さすがにあれだけ汗をかいたままだと、気持ちが悪いのです。

 私がシャワーを浴び終わっても、彼女はすやすやと眠っていました。
 すっかり安心しきった顔で。
 相手が私だからなのか。それとも警戒心に乏しいのか。
 まあ、彼女は以前からこんな感じだったような気もしますが、以前にも増して、という印象があって。
 それは私も同様で。
 ここで暮らし始めてからたった数日だというのに、ずいぶんと慣れ親しんだ気がします。
 ずっと麻雀を打っていないことは少々気がかりですが、これは他でもない麻雀部の部長が用意してくれた環境なのです。
 せっかくですから、ゆったり流れるこの時間を、たっぷり享受してしまいましょう。
 目覚ましのない宮永さんはいつ起きるのか?
 これを今日の課題とします。
 床に座り、ベッドに肘を乗せて、彼女の顔をじっと見つめて。
 起きたら、おはようございますって、その日初めて声をかけるのが私だとか。
 なんて悠々自適な一日なんでしょうか。
 彼女と一緒に暮らしていると、私はきっと堕落してしまいます。
 でも、暮らしが立ち行かなくなるぐらいの堕落でないのなら、いっそのこと、そんなふうに生きてみるのも悪くないかもしれません。
 両親が敷いてくれたレールからはもう、自らの意思で外れかけているのですから。
 いまさら、彼女に、執着することぐらい……。

 ……。

 などと、思考を廻らせながら時は過ぎていき。
 すでにお昼を過ぎています。
 まさか、目覚ましがないと起きられないタイプなんでしょうか……?
 少し刺激を与えるために、ほっぺたをつんつんしてみます。
「あぅぅ……」
 反応は見せるも、起きる気配はありません。
 寝苦しさを感じたのか、私の妨害を避けるように寝返りを打ってしまいました。
 なかなか強情です。
 こうなったら、蒸し焼きにしてしまいましょう。
 彼女を包むタオルケットを、さらに彼女に密着させます。
 そして私が密着します。包み込むように、できるだけ温度を高めて。
 そもそもが涼しい気温ではないため、こうしていれば、いずれ不快感で起きること必至です。
「あつい……」
 さっそく効果が出てきました。
 私は一応外気にさらされているため、それほど暑くはありません。地の利は圧倒的です。
 彼女はようやく抵抗し始め、もぞもぞしてきました。
「んーっ……ん、動けないよう?」
 どうやら起きたようです。
「もうお昼過ぎてますよ」
 彼女を抱き締めたままで、後ろからお寝坊さんにご挨拶します。
「原村さん?」
「はい、私です」
「動けないよ?」
「そうですね。私が抱きついていますから」
「意地悪してるの?」
「いいえ、お料理してるんです」
「お腹すいた」
「私もです」
「和ちゃん」
「なんですか?」
「大好き」
「……私もです」
 さりげなく言われた好意の言葉に、一瞬詰まりながらも同じことを返して。
 離れる前にぎゅっとしてから、彼女を解放します。
 名残惜しさは、温度の余韻で我慢して。
「さあ、咲さんもシャワーを浴びてさっぱりして。そのあと、ちょっと遅めのお昼にしましょう」
 彼女と過ごす初めての休日はそんな感じで。
 改められたお互いの認識とともに、ゆっくりと過ぎていきました。

 呼び名が変わったからといって、態度が急に変わるわけでもなく。
 特別なことは何もないまま、翌日になって五日目。
 窓から見える天気は生憎の雨で、外出するには微妙な休日。
 こんな日は家で、本でも読んで過ごすのが一番です。
 別に、外に出るのが億劫だとか、そんなことは決して……ないこともなくて。
 少しだけ、パソコンが恋しくなったりもしています。
 とはいえ、代わりに咲さんをいじるので、退屈はしません。
 けれど今は。
 肩を寄せ合って本を読んでいる彼女の邪魔は、しないでおきましょう。
 雨の音が、とても好きになれそうだから。

 六日目の朝になっても、雨は止んでいませんでした。
 二人で傘を差して学び舎に行くと、噂もまだ止んではいませんでした。
 休み時間のたびに、どこからか会話が漏れ聞こえてきます。

 ――ふたりはもう同棲してるんだって。

 ――会長ふられちゃったんだ? かわいそう。

 ――でも会長の浮気が原因で別れたらしいよ。

 ――あー、わかる気がする。

 ――他校の女子にも手ぇ出してるっていうし。

 ――会長、見るからに女たらしだもんねー。

 ――でもそこがいいのよ。

 ――あれ? 悪い女にひっかかるタイプだね?

 ――そうかも。あんたみたいな、ね。

 ――え。

 なんだか噂の対象がずれてきている気がしますが……。
 部長は人脈が広いようですから、様々な憶測を生んでしまうのでしょうか。
 なんにしても、私にとっては好都合ですけど。

 帰りの時間になっても雨は止んでおらず、開かれた二本の傘は、朝と同様の距離を保っています。
「雨、やまないね」
「天気予報によれば、まだ数日続くらしいですね」
 すっかり馴染んでしまったこの帰り道を歩くのも、ついに明日で終わりです。
 明後日からは元の家に戻るため、以前のように別々の生活となります。
 部長の指示から始まったこの生活が、本来ありえないはずのものだということは、わかっているつもりなのですが。
 どうしても、寂しさのようなものを感じてしまいます。
「明後日になったら、和ちゃんと離れ離れなんだね」
 どうやら彼女も同じことを考えていたようです。
 でも、声の様子は、いつもと変わりありません。
 感情の領域では、別のものを抱えているのかもしれない。
「和ちゃん、寂しいね?」
 寂しさなどまるで感じさせない明るい表情で彼女は、私の同意を求めています。
 そんな様子でしたから。
 からかわれているような気がして、私は。
「そうですね。私は家に帰ってもいつも一人でしたから。咲さんがいないと、もう、寂しさに耐えられないかもしれません」
 素直な気持ちを、誇張していました。
 すると彼女は、何を思ったのか、自分の傘を閉じてしまって。
 数秒の時を雨に打たれながら、私の傘に入ってきて。
「ひとりになんて、しないよ」
 足を止めた私に、微笑んで、根拠もないことを言うのです。
 そんな言葉でも、案外嬉しく感じてしまう。
 私も結構、単純な性格だったりするようで。
「私が和ちゃんを、絶対に離さないから」
 彼女が続けてそんなことを言うものだから。
 単純なキスを、してしまいました。

 ――雨音が聴こえないくらい、大好き。

 それから七日目が終わるまでの私たちは、それはもう風紀が乱れたものでした。
 部屋でちょっとそういう雰囲気になってしまえば、迷わずくちづけです。
 おはようのちゅー。
 ただいまとおかえりのちゅー。
 おやすみのちゅー。
 お風呂あがりのちゅー。
 テレビを消してちゅー。
 箸が転んでもちゅー。
 軽すぎです。子供の戯れのようなものです。
 それでもせずにはいられない。
 こんな体たらくで大丈夫なんでしょうか。
 明日からは家に帰っても、彼女はいないというのに。

 来たる八日目。
 今日からはマンションに帰ることがなくなり、部活も再会となります。
 放課後、旧校舎に赴くと、なんだか懐かしささえ感じられました。
「お、来たね?」
 不敵な笑みを浮かべている部長は、私たちを待っていたようです。
「さあて、成果を見せてごらんなさい」
 共同生活の目的は正直なところ、ほぼ忘れて生活していましたから。
 それで何か得られたかどうかは、わかりません。
 確か……咲さんのカンのあと、私は無意識のうちに消極的な打ち方をしてしまう、でしたっけ。
「おお和、久しぶりじゃのう」
「いつも京太郎がトンでばかりでつまんなかったんだじぇ!」
 すでに雀卓に着いているまこさんとゆーきに続いて、私と咲さんも座ります。
 全員、ここからはライバルです。
 相手が咲さんでも手加減は無用。全力を尽くすのみです。
「和、いい顔になったじゃない。咲となにかあった?」
「えっ? い、いえ……」
「あら」
 まるで全て見透かしているような態度で、部長は目を細めています。
「まあいいわ、始めてちょうだい」
 開始前に少々調子を崩されましたが、私の打ち方にその程度の動揺は関係ありません。
 ひたすら合理的に、確率と効率だけを頼りに、打っていくだけです。

 半荘開始から間もなく、咲さんのカンがありました。
 どうやら共同生活の成果は出ているのか。私は即オリるような真似はしていません。
 大丈夫、私は自分の意識を掌握できている。
 結果その局は、私のアガリで終わることができました。
 どうやらこの対局は、私の勝率の範囲内に収まるべき勝ち試合であったのか、私はそのまま順調にアガリの回数を重ねていき、二位の咲さんを大きく離してトップという状況でオーラスを迎えられました。
 最後の一局。決して油断はできませんが、私の配牌はすでにピンフのイーシャンテン。
 リーチせず警戒させずにいけば高確率でアガれる好配牌です。
 そして、幸先よく二巡目でテンパイ。
 まだ何があるかわからないとはいえ、ここまでくれば冷静第一の私も、勝利という二文字を意識し始めます。
 あとはアタリ牌を自分で引くか、誰かが出すか、です。
 ここはせっかくですから、咲さんから貰いたいところですね。
 ゆーきが打牌を終えると、彼女のツモ番です。
 さて、ここで出してくれるでしょうか?
「カン」
 本当によくアンカンができるものです。
 強運……という言葉で片付けていいものなのか。
 咲さんの引きは、やはり理解しがたいものがあります。
 そしてカンドラが、たったいまカンした牌でした。これでドラ4。
「もういっこカン」
 連続でカンする光景というのも、咲さんと卓を囲んでいればそれなりに見る光景です。
 カンできる可能性の高い牌を、卓上で得られる情報から計算して優先的に残していたりするんでしょうか?
 そして増えたカンドラが……先ほどカンした牌でした。これでドラ8。
「もういっこカン」
 連続での三度目のカン。こういうこともあるのが確率の世界です。
 勝つのも確率。負けるのも確率。
 たった数局の試合では極端な結果になりがちですが、しかし何千局とやって出た数字には、必ず実力が表れています。私はそれを高める打ち方をしているのですから、常に最善を尽くすだけなのです。
 そう、たとえ負けたとしても、一時の敗北は計算通り。何も問題はありません。
 カンドラは、同じです。これでドラ12。
「ツモ。嶺上開花」
 ……理屈ではわかっていても。

「まあ……いいんじゃないかしら?」
 苦笑する部長の感想をよそに、私は席を立って、咲さんを部室の外に連れ出します。
「わわっ」
 腕を引いて、強引に。
「おーおー、和がついにキレよったか」
「のどちゃん暴力はいかんじぇ!」
「ああ、あんなに清純だった和がどんどん遠くに……」
 三人ともうるさいです。

 部室を出て、廊下の隅に引っ張ってくると、
「の、和ちゃん?」
 私は戸惑う彼女を壁に押し付けて、キッと睨んでから、キスしました。
 情けないことに、泣きながら。
 納得できない、抑えきれない気持ち。未熟なのは承知の上です。
 でも、こうでもしないと気が治まらなくて。
 もう、私自身が矛盾だらけで。
 そんな私でも、彼女は優しく抱き締めてくれて。
 まるで「泣かないで」って、言ってくれているみたいで。

 そういうところが、すごく悔しくて……。

 ライバルとしても、パートナーとしても。
 私は、足りないところだらけのようです。

 けれど、諦めるつもりなんてありません。

「……咲さん、もう一回やりますよ。今度は負けませんから」
「うん、何度でもしよう? 私も負けないよ。こういうときの和ちゃんの顔も、好きだから」
 恥ずかしいことを平気で言ってくれて、私の涙を指で拭う彼女は、わりと嗜虐趣味なのかもしれません。
 いったいこれから、何度泣かされることになるのか。
 私の好きなひとは、とっても理不尽な女の子です。

<了>

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