咲-Saki-SS『ワンウェイビター内緒の砂糖』

 それは六月の某日。突然の通り雨でした。
「どうして結婚しちゃったのかしら……」
 部室の扉を開けた瞬間、溜息が部屋の外へ逃げていくようでした。
 切なさと気怠さが混在するような深い眼差しで、携帯電話の画面を見つめながら部長がいったその一言は、私が少し前から抱いていた疑問の答えとなる、決定的な呟きでした。
「結婚生活、うまくいってないんですか?」
 彼女の心を徒に乱さないように、静かに歩みを進めながら問いかけました。
「ええ。夫の暴力がひどくて」
「そうなんですか……」
 別れればいいじゃないですか。
 そんな一言で終らせられる問題ならば、これだけの賢女が憔悴しているはずがありません。そんな単純な話ではない。経験不足の私にだって、それくらいのことはわかります。
 知識の足りない素人の私が浅学なアドバイスをしたところで、助言になるどころか、なおさらひどい結果になる可能性だってあるのですから。
 いくら歯痒くても、ここで私がかけられる言葉は、決して多くはないのです。
「……その、そういうのって、相談できる機関があるみたいですから、旦那さんがいないときにでも、とりあえず、電話してみたらどうでしょうか」
「そうね……それがベストなのかもしれないわね」
 悩ましい面持ちを変えずに部長は、旦那さんからのメールでも見ているのでしょうか、携帯電話をじっと見つめたまま、決めかねる思いをのぞかせました。
 そして彼女は、
 でもね、と言葉を続けて。
「仮にも、一度は本気で好きになった人、なのよ」
 毅然とした声でそういって。
 その場にいたならば、誰もが胸を打たれたことでしょう。
「自分の人生を、命のすべてを、その人に委ねてもいいぐらいに愛して、愛された関係なの。そう簡単に、割り切れるものじゃないわ……」
 彼女は続けて、そういって。
 その目は、悲しげに細められて、閉じられて。
 その瞳と声の、静かな憂いが記憶に残って。
 その姿は雪原に佇む氷像のように、不鮮明で、とても綺麗で。
 私は彼女に――見惚れていました。

 美しいひとです。それに、聡明でもあります。
 そんな彼女が選んだ相手が暴力を振るうだなんて、いったいどういうことなのでしょうか。
 結婚した途端に相手が豹変した、という類の話は、私もそれなりに耳にしたことがありますが、詰まるところ愛というのは、とても理不尽で気紛れな、天災のようなもの、ということなのでしょうか……。
 何をいったらいいのか、言葉がなかなか出てきません。でも、なんとなく今は、なんでもいいから話をしたほうがいいような気がしたのです。
 そうしなければ、今、やけに儚く見える傷心の彼女が、どこか遠くへ、行ってしまいそうだったから。
「それにしても……やっぱり、部長は既婚者だったんですね。名字が変わったとか、噂には聞いてましたけど……」
「へ?」
 今日初めて私の顔を見たかと思えば、傷心であるはずの部長は、まるでポメラニアンが豆鉄砲を食ったような、なんとも形容しがたい表情を私に見せてくれました。
 わかりました。
 もう大体わかってしまいました。
 でも確定ではありませんから一応確認はします。
「なんですか今の反応」
 部長は、ぷっと吹き出しました。
「やーねドラマの話よ。何か勘違いしちゃってた? あははっ」
 そんなことだろうと思いました。ええ、思ってました。
 よほど愉快だったのか、片手でお腹を抱えながら笑っている部長がこちらに向けた携帯電話の画面には、あらかじめ録画されていたと思しきテレビドラマが映っています。
 今までどうして気付かなかったのか、台詞の音も聞こえています。どうやら二人の男性を愛してしまった女性が主人公のようです。
「部長、そういうの好きですよね……」
「あら、あなたは興味ないの? くふふっ。このドラマ、最近流行ってるのよオクサン」
 誰がオクサンですか。
「んー、昨日からずっと見返してたから、さすがに疲れちゃったわね」
 やつれている理由を明かしながら、気持ち良さそうに伸びをする部長でした。
「はぁ……」
 どっと疲れた気分で鞄を置くと、空間がいつもより広いことにようやく気付いて、二人しかいない部室が急に寂しく感じられました。
 部長と私以外の人は、今日は用事があって来られないそうなのです。四人も来られないというのは、またずいぶん重なったものですが。
 雀卓の椅子に座っていた部長は携帯電話を仕舞うと、先程の余韻を顔ににじませ、くくっと失笑しながら(腹立たしい……)おもむろに立ち上がっては、部室の奥へと活動場所を移しました。お茶でもいれるのでしょう。
「今日は誰も来られないから暇してたのよね。和も遅れるって話だったし」
 振り向かずに奥から語りかけながら、一個のカップにお湯を注いでいます。
「別に、帰ってもよかったんじゃないですか? 二人だけじゃ、それほどできることもありませんし」
 私は部長のあとで作りに行こうと、とりあえず椅子に座りました。
「まあね。でもたまには和と二人っきりってのも、悪くないかなって思って」
 ところが部長は、いれたてのお茶が入ったカップを、私の前に差し出したのでした。
「私にですか?」
「ええ、どうぞ」
 部長から手渡されたカップに入っていたのは、私が知っている飲み物ではありませんでした。
 色もさることながら、匂いが独特なのです。
「……? ありがとうございます」
 といって一口飲んでみると、思わず「うぁぁ……」なんて呻き声を出してしまいました。ごく自然に出た極めて動物的な声でした。
「すっごく不味いでしょ」
「わ、わかってて出したんですか……」
 なんなんですかこれ、後輩いじめですか……?
「まこが常連のお客さんから貰ったものらしいんだけどね、どうにも量が多くて飲みきれないからって、私にお裾分けしてくれたものなのよ。でもさ、その味でしょ?」
「それなら、みんないるときに飲んだほうが片付きますよ……」
 痛いぐらい苦くて、気持ち悪いほど辛くて。
 極上の良薬のような味が、たった一口なのにまだ舌に居座っています。
 こんなものが……どこかに売られているというのでしょうか? まったく理解しがたいことです。たとえ、いくら体にいい飲み物だったとしても、私だったら二度飲むことは絶対にありません。断言できます。健康のために健康を崩してしまっては、元も子もないのですから。
 自分の分を作る気など毛頭ないのか、すでに隣の椅子に腰を下ろしてしまった部長は、「おかわりいっぱいあるからね」なんて、ぱちっと可愛らしくウインクするのでした。
「いりません!」
 ……とはいえ。
 一応、せっかく部長がいれてくれたものなのですから、すぐに捨ててしまうというのもあんまりですし、この一杯だけは、なんとか飲みきることにします。
 こんな経験でもきっと、何事にも動じない精神を養うための、大切な糧になってくれることでしょうから。
「うぇぇ……ぅぇぇ……」涙が止まりません。
「いや、冗談だから、そんなに無理して飲まなくてもいいわよ、和……」

「はい、口直し。ってわけじゃないけど、お詫び?」
 といって部長が差し出したのは、なにやら一口サイズのお菓子のようでした。
 何か特別なものなのか、大きさのわりには凝っていて、可愛らしいリボンと包装紙で包まれています。
「これね、こないだ都内で買ってきたんだけど、今の時期しか手に入らない特別なチョコレートらしいのよ。好きな人に食べさせると両思いになれるって効能があるそうよ」
「食べさせるだけで両思いに、ですか? 非科学的かつ非人道的ですね」
 だいたいそういうのって、売るために付けられた惹句に過ぎない場合がほとんどじゃないですか。それに、もしも本当だったところで、人の心を都合よく改変するような物が巷に出回ったら大問題じゃないですか。
 だからそんなの、本当なわけがありません。
 本当にありえない、ありえないことです。
 そんなオカルトありえません。
 絶対に、絶対です。
「でもせっかくだから、貰っておきますけど……」
 若干の悔しさから視線を外し、小声でお礼を付け加えた私に対して、部長はまた失笑でもするのだろうと思っていました。心変わりした時点で覚悟はしていましたから、どうぞ笑ってくださいと、半ば開き直っていた私だったのですが。
 けれど部長は、「ええ、貰っておきなさい」と、微笑みを感じさせる、落ち着いたさざ波のような声で、たった一言、言葉をかけるだけでした。
 そういえば、部長はこれを、どうして私にくれたのでしょうか?
 自分が誰かに食べさせるために、手に入れたのではないのでしょうか。
「あ……。好きな人に、食べさせる……?」
 もしかして……と、俯き気味に探るような目で見る私の誤解に気付いたのか、部長はほんのちょっと慌てて弁明を始めるのでした。
「ああ、違う違う。食べさせるっていうのは、直接食べさせるって意味よ。チョコを持った指で直接、ね。あ、でも和のことは好きよ」
 私への好意はチョコの説明のおまけ程度ですか。
 別に、なんでもいいですけど。
「指で直接って、そんなことができる関係なら、すでに両思いなんじゃないですか?」
「……。そうとも限らないでしょ。別に色恋に限らず、親しい仲ならそれぐらい、いくらでも事例はあるんじゃないかしら」
「友人関係なら、相手はされても気にしないってことですか」
「でも片思いしてるほうにとっては、確かにハードルが高いかしらね」
「結局だめじゃないですか……。それに、ただでさえ恥ずかしいのに、脈絡もなくそんなことできませんよ」
「そうね。そうかもしれないわね」
 ついさっき、お腹を抱えて嘲笑のような失笑をしていたのがまるで別人だったかのように、部長は温かく優しく、ふふっと笑って。
 ゆっくり立ち上がると、涼風が流れるように私の肩を抱いて――
「んむっ……!」
 私の口に何かを押し込みました。
「さっきのはあげる。こっちがお詫びね」
 どうやらチョコレートのようでした。
 一口サイズのそれは、本来ならば恐らくとても甘いものなのでしょうけど、先程飲んだ飲み物の味がまだ舌に残っていた私の味覚は、強い苦みと甘みを合わせたビター風味を感じていたのでした。
「なんだか甘くて……すごく苦いです」
「あら、甘いだけじゃなかった? ああ、それか」
 部長は私が持っていたカップを取り上げると、わずかに残っていた中身に口をつけました。
「相変わらず、甘い物が欲しくなる味ね」
 そういって部長は、眉を困らせながら舌を出しました。

<了>

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