咲-Saki-SS『婚前夫婦』

 中学の麻雀大会で初めて出会って、一度は離れて、高校三年の春に再会した私と美穂子は、それから二年以上が過ぎた今でも、点と点を結んだ線のような関係を続けている。
 二点の距離が遠ければ遠いほど、二人のつながりは長くなる。私たちの関係を言い表すなら、そんな感じかもしれない。
 事実、実家で暮らしていた頃よりも、引っ越して距離が離れた今のほうが、美穂子のことを考える時間は多くなっていて。恐らくそれは、彼女が携帯電話を持っていないことも、少なからず影響しているのだろう。
 日々の雑談や大抵の用件であれば固定電話でも事足りるとはいえ、実家暮らしの彼女の電話はその家族と共用のものであり、あまり私との専用回線にするのも気が引ける。
 そんな事情もあって、私たちが日々したためているのは、メール代わりの一枚の便箋。いわゆる文通。
 遠方の友人と日常的に言葉を交わす方法としては、だいぶ古風なやり方ではあるけれど。彼女の筆遣いで書かれた手紙が届いたとき、彼女らしいその丁寧な字からは日溜まりのような温度が感じられる気がして。そんな思いにとらわれるのは、それが、彼女のそのときの気持ちをペンに乗せて書かれたものだから、だったりするのかもしれない。
 だから今、返事を書いている私の気持ちも、きっと、この黒いインクに溶けている。
 大学生である彼女の、近況に対する言葉に乗せて。
 会えない時間も、案外悪くないものね、って。

 美穂子が私のことを名前だけで呼ぶようになったのは、文通を始めてからだった。
 私が彼女のことを「美穂子」と呼ぶようになったのは、自然に、なんとなくだったけれど、彼女が私のことを「久」と呼んでくれそうな気配は一向になかったから、ある日のボウリングの帰りに「そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃない?」と軽い気持ちで言ってみたのが高校を卒業する少し前のこと。
 その頃の彼女といえば私の呼び名は「竹井さん」、たまに旧姓である「上埜さん」とも呼んでいたりして、いずれにしても姓に敬称だったので、そこから名前を呼び捨てにするとなると一段か二段飛ばしたステップアップ、みたいな感じになってしまって抵抗を感じる気持ちはわからないでもないけれど。結局その日は名前に敬称「久さん」というやや遠慮のある呼称を聞いて別れることになった。
 のちに文通を始めて、手紙のなかでもさりげなく同じことを求めていると、去年の秋頃から彼女の返事のなかでは私の求め通り「久」という呼称が使われ始め。手紙のなかでそう呼ぶことによって徐々に抵抗がなくなってきたのか、今年に入ってからの彼女は、実際に会った際にも私のことを「久」と呼ぶようになった。
 私にしてみれば大したことないそんなことでも、彼女にとってはそれなりに大きな心境の変化をもたらす一件だったようで。
 それからというもの、彼女の私に対する態度はそれまでよりも自然でくだけたものになって、より身近に感じられるようになった……というのが、今の私と彼女の距離。

 そんな近頃では、私は常に物足りなさを感じていて。
 一人でいるときには、人恋しいのか、ついつい彼女のことを考えてしまう。
 一人暮らしの寂しさを紛らわすだけなら彼女でなくてもいいはずだけど、一緒にいると癒されて、まるでその人自身が私の実家であるかのように気が休まる人なんて彼女の他には会ったことがないから、優先順位は必然的に、彼女が一番になってしまう。
 顔を見ると安心する。声を聞けば楽しくなる。
 手紙でのつながりもいいけれど、文字だけでは得られないものがあって。だから私は安らぎを求めて、会える日にはいつでも会いたいと思うぐらい、彼女は私の心に、感覚に、深く入り込んでいるらしい。
 彼女の青い目が見たい。
 写真に留まる止まった色などではなくて、青い空を映して染まる海のような深い青色で、語るように見つめてくれる、いつもは隠れている恥ずかしがり屋な彼女の右目が見たい。

 手紙の返事は別件として、会う約束は声でするのがいつものこと。
 二人の都合のいい日は手紙にも書かれているので、いついつどこで会いましょう、と書けば大抵は成立するだろうけど、来るかどうかわからない誘いの手紙のために必ずその日を空けておく、というのはお互いにとってよくない。こういった約束というのはやはり、すぐに交わせたほうが都合がいい。
 ペンを置いた私は、机の端に置いてあった携帯電話を手にとって、福路家に向けて電波製の鳩を飛ばす。
 美穂子の家に電話をかけると、まずは家族が出ることが多い。友人にかけているというのに「美穂子さんはご在宅でしょうか?」なんて訊かなければならないのは、なんだか懐かしいやりとりだと、かける度に感じられる。
 しばらくすると「はい、お電話代わりました」と、心地よい柔らかさで、美穂子の声が聴こえてきた。
「……」
 手紙からは感じることのできない、彼女の音。
 特別な用事があるときにしか電話では話さないので、声を聴くのも久しぶりで、記憶に刻み込まれた綺麗な青が、一瞬にして私の心に色をつけた。
「もしもし。……久?」
 疲れ気味の頭に染みる優しい彼女の息づかいは、私の不意をつくように眠気を誘う。
 いっそ携帯をジュークボックスにして、このまま寝てしまおうかと思うぐらい。
「ねえ美穂子。今度の土曜日、まだ空いてるかしら」
「ええ、空いてるけど」
「それじゃ土曜の十時に、いつもの場所でね」
 私たちがいつも待ち合わせている場所は、互いの最寄り駅をつないだ半分ほどの距離にある。もう何度も行っているところなので、詳しく言う必要はない。
「それはいいけど、久、なんだか疲れた声をしてるわ。大丈夫?」
「そう? 普段と変わらないと思うけど、遠征から戻ってきたばかりだから、かしら」
「それなら、今夜は早めに寝たほうがいいわね」
「うん、そうする」
 ほぼ用件のみという軽い会話をしてから、「じゃあね、おやすみなさい」と言って短い電話を終えると、私は携帯を枕元に放り投げ、倒れるようにベッドに突っ伏した。
 学生時代は周りの平均レベルが低かったのであまり苦戦した記憶はないけれど、相手が全員プロともなればさすがに神経をすり減らす。
 高校を卒業してからすぐにプロ雀士となって、一年と半年近くが経った今でも、プロリーグでいい成績を残すためには毎日が勉強だ。
 プロ二年目であっても、夜更かしできるような余裕はまだない。夜になると、眠ろうとすればいつでも眠れる。
 枕に頬を押しつけながら、土曜日に先駆けて会えるかも……なんて薄らいだ意識で思っていたら、その夜は夢を見ることすらなかった。

 私の仕事の都合でなかなか時間が合わないため、実際に会って顔を見られるのは一ヶ月に一回程度。さらには、お互いの住む場所が離れているため、会うのはもっぱら外である。
 訪れた土曜日は朝から雨が降りそうだった。けれども傘を持っていくという選択肢は私にはなく、降ったら降ったで現地で買えばいい。自ら収入を得るようになってからというもの、学生時代より大雑把になったかもしれない。雨模様の日はいつもそんな感じだった。

 待ち合わせの駅に着いたとき、時計を見ると九時六分。
 約束の時間までにはまだ五十四分もある。というのはわざとであって、早く着いてしまったのではなく、意識して早く着くようにしたのだ。
 改札を出て駅前に出ると人の影はそれなりに多く、雑踏が私の視界をもどかしく遮っている。そんな状況にあっても彼女の姿は人目を引いて。その鮮やかな黄金色の髪と、遠目にもわかるスタイルのよさを見逃せるはずはなく、駅前から見えるロータリーの端、木陰の下には、文庫本を片手に片目を瞑って読書をしている美穂子が、いつも通り、周囲の視線を浴びながら立っていた。
 私が途中まで近づくと彼女は気付いて、見慣れたショルダーバッグに本を仕舞い込んだあと、私を見て口元をほころばせながら、控えめに片手を振った。
「やれやれ、今日も遅れちゃったか……」
 気を遣うな、というのは彼女には無理な話なのだろう。
「いいえ、まだ五十分もあるわ。早いのね、久」
 どこか満足げに見える表情で微笑む美穂子は、私より遅く来たことが一度もない。
「ねえ、いつから待ってるのよ?」
「ついさっきよ」
 彼女にとってのついさっきは果たして何時間前なのか。
 こんなふうにはぐらかすのもいつものことで、今度は二時間ぐらい前に来てみようかとも思ったけれど、そんなことをすれば気遣いの連鎖で待ち合わせ時間がどんどん早くなっていき、いずれは前日になってしまうような気がしたので、諦めたほうがよさそうだ、と妥協することにした。
 私の早刻を許さない美穂子の今日の服装は、まだ夏の暑さが残る九月という季節に打ち水をするような、涼しげで爽やかなものだった。
 高校時代の後輩である和ほどではないけれど、華奢でありながら豊かという、二律背反の体を持つ彼女の薄着姿は、そのシルエットだけでも私の美的感覚をくすぐるぐらいに「……うん」魅力的だ。
「どうしたの?」
 これまで幾度か素直な感想を言ってきたというのに、いまだ自分の魅力に無自覚な美穂子が何もわかってなさそうな顔をするので、今日もはっきりと言ってあげる。
「可愛い」
「え?」
「今日も美穂子が可愛い」
「やだ、もう、おだてないで。恥ずかしいわ……」
 困ったような顔を隠すように、俯いた美穂子は片手で横髪を触っている。
「おだてなんかじゃないわ。美穂子は肌も綺麗だから、程良く露出した格好がよく似合う」
「そう、かしら。そういう久だって……素敵よ?」
「ありがと。でも無理に誉めなくていいのよ」
 こんな美人に誉められても社交辞令にしか聞こえないし。
「無理にだなんて、またそんなこと……」
 いつでも控えめで謙遜しがちな彼女のことだから、誉められれば誉め返すのが癖になっているのだろう。
 以前もそうだったので、聞く耳を持つ必要はないと思った。
「ほら行くわよ、可愛い美穂子さん」
「あっ――」
 ぐいっと美穂子の手を掴んで歩き出す私と、慌てて小走りで隣に並ぶ彼女。
 並んでから握り直して入り組んだ指と指を、私は目的地に着くまで放すつもりはなく。彼女もまた、自分から離す気はないようだった。

 美穂子とはもう何度か来ている二十四時間営業のカラオケボックスは、ちょっと古めかしい部屋の内装が、まるで小旅行にでも来ているかのような気分を演出してくれるので気に入っている。
 そんな小さな旅館のソファーに座り、さてどちらから歌おうか、と考える必要もなく、美穂子の歌声を聴くことが今日の私の目的である。
「美穂子からどうぞ」
「そうね、じゃあ、最初はこれにしようかしら」
 美穂子が歌本のなかから選んだのは、一年ほど前に流行ったラブバラードだった。彼女は曲情報を転送するリモコンが扱えないので、指し示されたその曲を、私が代わりに転送してあげる。
 間もなく、しっとりとしたイントロが流れ始めると、美穂子はマイクを両手で持って、モニターに映る未然の歌詞を片目だけで見つめた。
 マイクが口元に近づけられ、部屋のスピーカーから彼女の息づかいが聴こえると、それが合図となって。
 部屋中が彼女の柔らかい歌声で満たされて、うっとりする優美な空間が作られていく。
 聴いた者を優しく抱きしめるような、そんな彼女の歌声を聴いていると、心が安らぐ。
 瞼を閉じれば彼女の体温を感じられるようで、とても気持ちがいい……。
 ……――

「疲れてるのね」
「は……」
 瞼を開けると、私の上半身はソファーで横になっていて、美穂子はすぐ側に座って、私の顔を見ていた。
 どうやら眠ってしまっていたらしい。
「ふふっ。久の寝顔、初めて見たわ」
 誘った本人が現場に来て早々に熟睡するという無責任極まる振る舞いにも、美穂子は怒った様子など微塵も見せず、すべてを赦すような慈悲深い笑顔で私を包み込んでくれていた。
 ほどなくして連絡用の内線電話が鳴り、終了時間の知らせが届いた。
 ずいぶん寝てしまったようだった。

 カラオケボックスを出たときにはちょうどお昼の時間になっていて、一曲も歌わずカロリーをほとんど消費していない私ではあったものの、朝食をとっていないそのお腹はすぐにでも代わりに歌い出しそうな気配があった。
「さて、お昼にしましょうか」
「ええそうね。今日はどこがいいかしら」
 いつもはファミレスやファーストフードなど手頃な値段のところで食べているので、たまにはちょっと高めなところに行ってみるのもいい刺激になるかもしれない。
「ここらへん、フランス料理店とかあったかしらね?」
「久、あの、私まだ学生だから、あんまり高いところは……」
「心配しないで、もちろん私の奢りだから」
「だめよ、割り勘じゃないと」
「私、けっこう稼ぎいいのよ? 美穂子の食事代ぐらいなら、毎日出しても平気なぐらい」
「それでもだめっ。こういうことは節度が大事なの」
 めっ、と子供を叱るように言う美穂子。たまにならいいじゃない、と私は思うのだけど、泣く子と美穂子にはかなわないのでここは譲歩することにした。

 結局、価格とメニュー及び栄養バランスがいいとかで、美穂子の希望により定食屋で食事することになった。
 それならそれでいいかとテーブルにつき、肉がメインのハンバーグ定食を頼もうとしたところ、美穂子によって野菜多めのメニューに変えられてしまった。
「どうせ偏った食生活をしてるんでしょう」
 料理を注文したところで、母親のお説教みたいな美穂子の話が始まってしまった。ここ数回会って気付いたことだけど、彼女は結構口うるさい。
「そう、ね。まあ、コンビニのお弁当とか、外食も多いかな」
「やっぱりそうよね、お仕事忙しいみたいだし」
「忙しいというか、まだいっぱいいっぱいなのよね。二年目なのにね」
「大変そうなのはテレビを観ててもわかるわ。ほとんどが全国レベルの人だもの。本当は私が作りに行ってあげられればいいのだけど……」
「美穂子がそうしてくれるなら私は助かるけど、距離があるから難しいわね」
「そうなのよね」
 テーブルに視線を落とし、はぁ……と溜息をつく美穂子。
 他人の問題でこの様子。
 今更ながら、彼女のおせっかいは重症だと思った。

 昼食後もひとしきり休日を享受して、空が暗くなり始めた頃。
 本当ならもっと遅く、いっそ夜が明けるまで遊んでいたいところだけれど、私は明日の試合のために早く休まなければならないので、名残惜しいながらも、駅までの帰路を美穂子と歩いている。
 彼女と夕飯の話をしている最中、ちょっと上の空で、次に会えるのはいつになるのかしら……などと考えていると、腕にぽとっと、何かが当たった気がした。
「あら、降ってきた?」
 水滴を肌で感じて間もなく、空は蛇口をゆっくり捻るように雨粒を落とし始めた。まばらに歩いていた周囲の人たちは、傘を差したり慌てて走ったりと忙しそうだ。
 足を止めて傍観者となっている私は傘を持っていないのだから、後者に続かなければ間もなくずぶ濡れになってしまうことだろう。けれど、一緒にいる美穂子が前者だったので、私は急ぐようなことはせず、立ち止まった彼女の隣で待っていた。
 美穂子が鞄から折りたたみ傘を出している間にも雨の勢いは着実に強くなっていて、ご機嫌ななめの空に向かって水色の傘が開かれたときには、すでに私たちはいくらか濡れてしまっていた。
「美穂子がいると助かるわ」
「ごめんなさい、出すのが遅れちゃって、少し濡れちゃったわね」
 美穂子は必要のない謝罪を交えながら、水滴のついた私の髪と腕をハンカチで拭き始めた。同じく美穂子も濡れているので、私もポケットからハンカチを出して、彼女を拭いてあげる。
 向き合ってお互いを拭いている彼女の表情は、たった今ごめんなさいと、謝罪に似せたことを言ったわりにはどこか楽しそうな様子だった。そんな彼女の穏やかな笑顔に反して、雨の音は激しさを増していく一方である。

 傘の下、並んで歩き始めてからしばらく。
 ふと気になって隣を見ると、案の定、美穂子の右肩は雨にさらされていた。
 傘の広さはちょうど二人分。限界まで詰めてさえ、端の方はどうしても濡れてしまうだろう余裕のなさだというのに、私たちの間には無粋な風の通り道がある。
 にもかかわらず、私の左肩は濡れていない。
 彼女は、傘の半分以上を私に使っていたのだった。
「傘、持つわ」
「別に重くないわよ?」
 私は右手で傘の柄を得ようとするも、彼女は傘を持っていないほうの手で私の手を制し、やんわりと断った。
 厚意の主導権を握らせない。柔和な見た目と違って案外強情な彼女は、いつものように白々しい素の態度を見せて、さも当然のようにその肩を雨に打たせている。
 私はそんな美穂子の細い肩がこれ以上濡れないよう、二人の隙間を埋めるために、体ごと彼女の肩を、よろけるぐらい乱暴に抱き寄せた。
「きゃっ」
 可愛い声と同時に、驚くように傘が揺れた。
「まったく、こんなに濡らしちゃって……」
 彼女の肩を抱いた右手には、華奢な感触と、びっしょりとした手触りがあった。
 彼女はあまり頭を動かさずに左目だけで私を見ると、駄々をこねるような口調で、
「私なら平気よ? 雨は嫌いじゃないもの」
 と意固地に抗議した。
「そういう問題じゃないでしょ」
 私は頭を横に傾けて、美穂子の頭を軽く小突く。
「たっ……。痛いわ、久」
「私の大事な美穂子を、ないがしろにしてくれた罰」
「だ、だいじなって」
 近頃の彼女にしては珍しく動揺したようで、美穂子はその白い頬を淡い朱色で彩ると、そっぽを向いてしまった。
 そういえば、容姿などを誉めることはあっても、こんなふうに直接好意を口にしたことは、今まであまりなかったかもしれない。
 今の言葉にはそれほど深い意味は込めていなかったはずなのに、思い返すとなんだか妙に意識してしまって。
 私、結構恥ずかしいことを言ってしまったのかも……と、口元に変な弛みを感じる宵の口。
 今はたぶん似たような顔をしている私たちは、主に私のせいで口数が少なくなってできた静謐の中、それでも密着したままで、降りやまない雨が傘を鳴らす音を聴きながら、駅へと戻った。

 そういえば今日も、美穂子の青い目を見られなかった。彼女の右目を実際に見たのはどれくらい前だったろう。
 畳んだビニール傘から落ちる雨の滝で廊下を濡らし、マンション自室の扉を開けたときに、私はようやくそんなことを思い出した。
 別に、残念ではなかった。
 見たいからといって、わざわざお願いして見せてもらう必要性も感じない。
 なぜなら、私の深い部分に刻まれている宝石のように美しい虹彩の記憶は、持ち主である美穂子に会うことで再び新しい記憶となって、鮮明に呼び起こされるから。
 かつて私が惹かれた青い目は、彼女自身だと言ってもいいようで。どうやら彼女を見るだけで、私の視覚は満たされてしまうらしい。
 だから今はそれで充分。
 だけど。
 もしかしたら近いうちに、今以上に彼女を求めてしまう日が来るのかもしれない。
 今日の雨の中で、そんな予感がした。
 だから――

 そろそろ一緒に暮らさない?

 私は机に向かってペンを握ると、その一文だけを便箋に書いて、封筒に入れて、鍵の付いた引き出しに仕舞い込んだ。
 その一通は、今は送らない。
 それはいつか訪れる最後の文通のための、最初で最後の、恋文だから。

<了>

目次に戻る