咲-Saki-SS『愛しのペリドット』

 黄昏時は薄暗く、沈む日の色は浅らかに、薄明は鏡のように虚ろな心を映し出す。青と橙の混ざりあった物寂しい夜の境界をぼんやり見ている、そんな自分がこの空のようになっている要因を、竹井久本人も理解できてはいなかった。
 県予選の個人戦は惜しくも敗退という結果に終わってしまったけれど、二年間ずっと切望していた部員が二人も全国への出場を決めたことには、久も悪い気はしていないはずだった。

「まだ帰らんのかー?」

 活動時間はとうに終わり、すっかり物音ひとつしなくなった部室から声をかけるのは、眼鏡をかけたクセ毛の後輩。自分と同じく全国大会個人戦への切符を逃してしまった染谷まこは、久にとって清澄でできた初めてのパートナーだ。

「ずいぶん浮かない顔しょうるけぇ、あんたらしゅうないよぉ」

「ほんとよね」

 振り向いてバルコニーの柵に背中を預けながら、久は力無く苦笑した。

「燃え尽きちゃったのかな」そんな弱音すらこぼれでた。

「八月には全国の団体戦があるんよ? それもあんたぁが行きたがってた」

「満足……しちゃったのかしらね」

「満足?」

「私が求めていたのはもしかしたら、みんなで全国に行くことじゃなくて、私の想いを継いでくれる子だったのかもしれない」

「それが咲と和だってゆうんか?」

「優希もいい子よ。あの子もこれからまだまだ伸びるわ。あの子たちなら、来年と再来年、きっと全国でも優勝できる」

「まるで今年は諦めたような言い種じゃのう」

「そういうわけじゃないんだけどね、胸にぽっかり穴が空いちゃったみたい。そこに火種があったらしいのよ」

 手を胸にあてるとどうにも空虚で、二年と二月抱いてきた火の温度が、今はとても弱々しい。
 消えたのは薪か、それとも情熱の火そのものか。

「はぁ、若い娘を釣るだけ釣っといて餌はもうやらんなんて、部長はとんだ悪女じゃねぇ」

「そうね、さんざんあの子たちを焚きつけておいて、ここに来てやる気がなくなったなんてひどいわよね。こういうとき、咲だったら和が叱ってくれるんでしょうけど」

「まさかわしに、その役目をやれゆうんか?」

「一番近くにいるじゃない」

「そう期待されても、わしが叱っても和ほどの説得力は出せんけぇ」

「ここで気の利いたことを言えないからまこは頼りないのよね。和の方がよっぽどしっかりしてるわ」

「そりゃそうかもしれんが、そうはっきり言われると傷つくのう」

 傷心を口にしていても本当にそう感じているわけではなく、まこはいつも久の戯れをさらりと流してくれる。それは人によっては、大切な言葉が響かないという短所にもなりかねない性質ともいえるが、真剣な雰囲気を察する程度には彼女の感覚は鈍くない。
 だから久は特別に繕うことなく、色の違う次の言葉を自然体で紡ぎ出すことができる。

「まこ、来年はあなたが部長としてみんなをまとめるのよ? もう少ししっかりしてくれないと、安心して卒業できないじゃない」

 それは近ごろ久の心中に生じた不安のひとつだった。
 久が求め続けて三年目の今年にようやく形を成すことができた麻雀部なのだから、自分が去った後とはいえ、もしも今の一年生までで無くなってしまうようなことがあればあまりに儚い。
 だからまこには最低でも、自分以上の部長になって欲しいと願うのだ。

「留年、してくれんか?」

「冗談おっしゃい」

 ここで冴えない冗談が返ってくるあたり、やはり不安は拭いきれない。

「部長かぁ、わしに務まるんじゃろうか……」

「大丈夫よ。元々は私の夢だもの、卒業するまでは私が責任を持って支えてあげるわ」

「卒業後はしてくれんのか?」

「どうかしらね。学費の問題で正直まだ決めかねてるけど、進学するにしても就職するにしても、部に関わるような時間はなかなか取れなくなるんじゃないかしら」

「それなら、卒業したらうちの雀荘に就職せんか? うちじゃったら今の一年たちが淋しくなってもいつでも会いに来られるけぇ。優希はあんたぁに懐いとるから、きっと淋しがるよ」

「淋しいっていっても一時のことよ。いずれにしてもずっと近くにいられるわけではないのだから、傷が浅く済むうちに離れたほうがいいわ」

「なんだか……意外に冷たいんじゃのう」

「本人の口から直接聞ければ考えるかもね」

 少なくとも、他人をだしにして自分の気持ちを代弁するようなことでは久の心は動かないから。

「本人て、優希がか?」

「さぁ? でも、まこが淋しくないなら問題ないじゃない」

 自分でも意地が悪いとは思う。
 普段は学生議会長という立場にあり、麻雀部では部長にしてただ一人の三年生という久は後輩を先導しなければならない立場。同年代では上に寄る辺のないそんな久にとって、まこはわがままを言ったり甘えたりできる唯一の存在だ。久は学外でも大人の付き合いをすることが多いため、学内学外問わず、気の置けない友人としては無二と言ってもいい。
 そんな存在だからこそ直接聞きたい言葉もある。
 まこは性格的にあまり湿った空気には慣れていないのだろう。案の定といった様子で逡巡している彼女は急にしおらしくなって、口の滑りが悪くなる。

「……そりゃあ、わしだって……淋しいよ」

「聞こえなーい」

「いや、絶対聞こえてるじゃろ!」

「そんな蚊の鳴くような声で私の心が動かせると思った? もう少し情熱的じゃないとね」

「……負けてくれんか?」

「さて、そろそろ帰ろうかしら。残念だけど来年にはお別れね」

「ま、待ちんさい!」

 からかいがいのある後輩をいじっていると、沈んだ心も段々と癒されていく気がする。
 本人に言ったことはないけれど、久はまこがいることで随分と助けられている。だから、つい、いじめてしまう。
 油断すれば自分の弱い心がすぐに依存してしまいそうな彼女のことを、生意気に思って。

「あと五秒、はい、五、四、三、二」

「わしはあんたに毎朝味噌汁を作って欲しいんじゃっ!」

「……何よそれ?」

 どこかで聞いたようなフレーズだったが、いま聞いてもその意味はわからなかった。

「い、勢いだけで言ってしもうたから……」

「んー、もう一押しかしらね」

「いったい何をすればいいんじゃ……?」

 本当に久が離れてしまうと思っているのか、まこのレンズからは不安そうな瞳が覗いている。

「もうちょっとわかりやすく、私を求める気持ちをシンプルイズベストって感じで」

「……」

「えっ? なに?」

 今度は本当に聞こえなかった。
 体に衝撃があった。
 気付けば、まこは久に抱きついていた。
 不思議と温かい気分になり、思わず笑みがこぼれてしまう。

「まあ、こういうのも、悪くないわね」

 いい部長、いい先輩であった自信はあまりない。
 それでも、こんなにも慕ってくれる後輩に恵まれたのだから、自分が麻雀部を続けてきたことは無駄ではなかったのだと思える。

「あなたたちのこと、大好きよ……」

 まだ頼りないまこの背中を撫でながら麻雀部のみんなと出会ってからの日々を思い返してみると、他の高校に行っていたなら決して得られなかったと確信できるぐらい、とても楽しく充実した最高の時間を過ごせたものだとしみじみ思う。
 清澄に入って間もない頃、久は自分しかいない麻雀部で一人、牌を触りながら自らの家庭状況を恨んだこともあった。中学のときも大会を途中放棄せざるを得なかった原因を、どうして恨まないでいられよう。
 しかしそれらのことも、この年に至高の花を咲かせるためのお膳立てだったのだと考えられるようになった今では、もしもそれらが無かったらと考えると逆にぞっとするぐらい尊く思える。その全てには、ちゃんと意味があったのだから。
 結果はどうなるかわからない。しかし全国団体戦への出場はもう決まっている。高校生活最後の大会を、久は愛しい後輩たちと一緒に思い出にすることができる。
 咲、和、優希、京太郎。自分の夢を形作ってくれた一人一人は誰もとてもいとおしく、その中でも最も親愛の情、そして恋慕の情すら感じるのはやはり、一年の苦楽を二人きりで共にした彼女、まこだった。

「部長……卒業しちゃ、嫌じゃあ」

「ちょっと、まだ半年以上あるのよ? それに、今生の別れじゃあるまいし、会おうと思えばいつでも会えるじゃない。たぶん行けることになる大学だって実家から通うつもりなんだから」

「じゃあ家にも行くし、おんなじ大学にも行くけぇ……」

「どうしたの。急に甘えんぼになっちゃって」

「ぐすっ」

「あら、泣いてるの? もう……」

 普段はいつでも朗らかな彼女の感情の入れ物でも、何かのきっかけでヒビが入ればこんなにも容易に割れてしまうものなのだろうか。
 そういえば少し前まで、二人きりだった頃の彼女はこんな感じだったような気がする。ここ二ヶ月ほどで随分と時が流れてしまったような気がするけれど、甘えんぼが直った気がするのはきっと、春にできた妹のような優希に、弱いところを見せられないから、だったりするのかもしれない。
 彼女も、頑張って先輩をやっていたのだ。
 たまには先輩に甘えたくなることもあるのだろう。彼女は今、久を求めている。
 そして久にもまた彼女が必要なのだから、ここで応えることには些かの躊躇いもないのだった。

「私はずっと、あなたの手の届く場所にいるわ」

「っうく……嘘じゃあ」

「何よそれ。人がせっかく安心させてあげようとしてるのに」

「部長は人気もんじゃあ……きっとすぐにわしのことなんか忘れてほかの子んとこに行ってしまうけぇ」

「あなたみたいな子を放っておけるわけないじゃないの」

「嘘じゃあ……」

「信用ないわねえ。ほら、顔見せて。あらひどい顔」

 自分の弱気が移ってしまったのか。彼女の眼鏡の奥は梅雨の雨水でいっぱいだった。
 眼鏡の隙間にハンカチを滑り込ませて拭ってあげると、うさぎのように目の赤くなった可憐な少女がレンズの奥から久を見つめていた。
 初めて出会った日のことを彷彿とさせる可愛らしさで。
 自分と同じ未来を見つめる彼女のために、出来る限りのことをしてあげたいと思った。

「そうね、約束の証が欲しいのなら」

 久は制服からヘアゴムを取り出すと、まこの髪を一房手に取った。その波打つ緑色は、部室から漏れる明かりの逆光に照らされて透き通るように煌めいている。

「夕刻のエメラルドにリングを付けましょう。ペリドットはないけれど、あなたが誓いの宝石代わり」

 緑の宝石にリングを巻くと、それは彼女のクセ毛と絡み合って、末永く外れない絆となるようだった。

「指輪代わりなんか……?」

「六月に永遠の誓いだなんて、まるでジューンブライドよね」

「ぶ、ぶちょう、大好きじゃあ」

「はいはい」

 先程とは異なる満たされた抱擁を受けて、久は彼女のことを今まで以上に大切に感じていた。
 いつの間にか久の胸が熱くなっていたのは、きっと彼女からの貰い火だろう。

「私も大好きよ、まこ」

 今日突き放さなかったことは過保護かもしれない。
 関係は変わらないにしても、卒業すれば久は部長としてのまこには付いていられない。
 来年の春になればいずれにしても久はここにはおらず、この部と現在の一年生、そして新たに入ってくるであろう新入部員は全員まこに任せなければならないのだから、年長者としての自覚はもちろんのこと、後輩への甘え方も知ってもらわなければならない。
 それも自分の在学中に、僅かな不安も感じなくなるまで。
 そうでもなければ心配が過ぎて、卒業後もつい、部室に顔を出してしまいそうだから。

「少し、お茶でも飲んでから帰りましょうか」

 どうやら伝えていかなければならないことはたくさんあるようで、久が安心して引退できる予定が立つまでにはまだまだ時間が必要らしかった。
 可愛い後輩にして自分好みに育てる愛しい宝石、今は未熟なペリドット。
 近い将来その貴石が磨かれたときには、久はいったいどれほど溺愛してしまうのだろう。
 そのときはいよいよ自分がダメになってしまいそうで、少し怖くもあった。

<了>

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