咲-Saki-SS『存在の証明』

 誰もいない部室の中には、私もいない。
 光の届かない深い闇の中にいるようで、存在するのかしないのか、自分でもわからなくなることがある。
 誰に認識されることもなければ人は存在しえないものなのだと、こんな空虚な時にはつくづく思い知らされる。
 もっとも、誰かが傍にいたほうが、私の存在はより否定されるのだけど。
 静寂の中。椅子に座ってうとうとしていると、一定のリズムで時間を刻む秒針の音が聞こえてくる。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、コッ、コッ、コッ。

 秒針の音はやがて誰かの足音に変わり、間もなく扉が開けられた。
 遮る物のない足音は愛しい間隔で歩みを進め、部室に存在する人間がようやく一人になった。

「モモ、来てるか」

 先輩の声で二人になった。

「来てるっす」

 表情があまり崩れることのない先輩。いつも冷たい表情なのは今も変わらない。でも、その氷の瞳には明瞭に私を映し出してくれている。私にとっては、それだけで嬉しい。

「やはりいたか……。今日の部活は休みにすると、昨日言っておいたはずだが」

「そうなんすか? すみません。たぶんそのとき、居眠りしてたっす」

「居眠り?」

「最近、寝るのが遅くて」

「それは、部のためか」

「はい。先輩の戦術を実践してるっすよ」

「そうか……。大会まであまり時間がないせいで、おまえたちに無理を強いているとは感じていた。それでたまには休みも必要だろうと考えたのだが、すまない……どうやら配慮が足りなかったようだ」

「私は別に、好きでやってることっすから」

 ……先輩が好きで、やってることっすから。
 そう言えるまでには、あとどれぐらいかかるのだろう。
 それとも、言えるときなど来ないだろうか。

 ――私は、君が欲しい――

 先輩は、私の力を求めてくれた。
 だけど私は、先輩自身を求めている。
 それは等価ではない。
 言えば、拒まれれば、ここにはいられない。
 私はまた、独りぼっちになってしまう。先輩を知る前なら当たり前だったことなのに。
 私は孤独でなくなった代わりに、失う恐怖を知ってしまった。

 先輩。
 先輩は、麻雀という楔を除いた私のことをどう思ってるんすかね?
 今も、誰もいないはずの部室に、あなたはどうして……。

「今日は誰もいないはずなのに、先輩はどうしてここに来たんすか?」

「ああ……なんとなく、おまえがここにいるような気がしてな」

 近くにいても、居眠りなどしていれば見失ってしまう私の存在を、離れているときに感じるだなんて。そんなこと、ありうるのだろうか。
 あるとすれば、それが特別な感情の証左であると、思ってしまうのは夢の見すぎだろうか。

「モモ、今日はもう帰って早めに寝るんだ。予選はもうすぐ始まる。いま体調を崩されては出場すら危うくなる」

「そうっすね。今日はゆっくり休みます」

 そうっすよね。私は先輩にとって、大会のための存在。
 大会がなければ、私は求められてはいなかった。
 そんなことは、わかっていた。

 ……つもりだった。

「先輩にとって……私の存在ってなんなんすかね」

 こんなことを言うつもりは全くなかったのに。
 でも、抑えられない感情が声帯を震わせて、気付いたときにはもう言葉になっていた。

「モモ……? いきなり何を……」

「私は大会のための駒なんすよね。勝つための力。不足を補うただの新入部員。大会が終われば用済みの……」

「モモ!」

 先輩の怒ったような顔を見るのは初めてだった。
 強く掴まれた両肩が鈍く痛む。

「先輩、痛いっす……」

 私の言葉に反応して少しだけ力を緩めた先輩の表情からは、ひどく、乱れている心が感じられた。
 例年より高い初夏の気温のせいか、先輩の輪郭に、一滴の汗が流れ落ちた。

「お前は私のことが嫌いなのか? あのとき私を受け入れてくれたのではなかったのか?」

「確かに先輩の求めには応えたっす。今でもちゃんと応えてるつもりっすよ? そんなに心配しなくても、部を辞めたりはしませんし、大会では頑張るっす。すみません。ちょっと弱気になっちゃっただけっすから……」

「違う!」

 何が違うのだろう。先輩は私が欲しいと言った。麻雀部の戦力として、一人の部員を。
 それが違うというのなら、いったい何を私に求めたというのだろう。部に入ってからというもの、一緒に出かけたときでさえ、麻雀以外の話はほとんどしていない。それ以外に求められていることなどないはずだ。
 それに……私たちは女同士なのだ。先輩が私と同じ意味で求めてくれることなど、あるはずがない。

「じゃあ、先輩は私の何を求めてくれたんすか? 麻雀以外に何もない。存在すらしない私の何を」

 私の問いに対して先輩は、虚無感に襲われたようにくずおれて、床に膝をついてうなだれた。
 両肩から滑るように落ちた先輩の手が、私の体をなぞりながら床へと落ちた。

「……ずっと求めていたつもりだった。だが、伝わらなかったようだ。……当然だ。そんなことは最初からわかっていた。拒まれることが怖くて、はっきり言いたくても、どうしても言葉を選んでしまう私は臆病者だとわかっていたというのに……」

「先輩……?」

「もし、あのときおまえに伝わっていなかったらと思うと、今度こそ拒まれるかもしれないと思うと、恐怖で踏み込めなかった。……しかし、おまえにそんなことを言わせてしまうのなら、もう、逃げるような言い方はやめよう。私が本当に……何を求めているのか」

 先輩は顔をあげると、椅子に座ったままの私の体を、すがりつくように抱き締めた。やや不安の色が混じった凛々しい顔が私の腹部に当たる。

「私は、おまえが欲しい。おまえの力ではなく、私はおまえの心と体が欲しい。おまえが好きだ。愛している。モモ!」

 ――私は、君が欲しい――

「……せんぱい……あのときの言葉って……そういう意味だったんすか? 先輩はあのとき、私自身を求めてくれて……?」

「そうだ。私は必死でおまえを求めた。見たこともない相手にあれだけ執着するなど、自分でもどうかしていると思った。だがどういうわけか、自分自身を止められなかった。どうしても、おまえが欲しかった……」

 あのときの言葉が本当にそのままの意味だったなんて。
 ほんと、キザっすよね。
 でも……そんなところも大好きっす。

「モモ。おまえはどうなんだ? 私の本心を知っても、あのときのようにまた、私を受け入れてくれるのか?」

 私の気持ちはあのときから決まってるっすけど、いつも冷静な先輩のそんな弱々しい顔を見せられたら、ちょっと意地悪したくなっちゃうっすね。

「先輩、離れてください」

「モモ……」

 上目遣い。怯えた瞳。普段の先輩からはとても考えられない表情。私のちょっとした素振りで、先輩がここまで弱くなる。あのかっこいい先輩が、今はこんなに可愛くなって……ゾクゾクしてしまう。

「先輩の気持ちは理解できたっす。でも、まだ確かめないといけないことがあるっす」

「確かめなければ……ならないこと?」

 私はおもむろにブレザーを脱ぐと、タイをほどいてブラウスのボタンを上から三つだけ外した。胸元までの素肌がしどけなく露出する。

「モ、モモ!?」

「先輩。この体に触れて、私のマイナスの気配に巻き込まれて、この先ずっとこの世界から消えてしまうとしても、それでも私の体を求めてくれるっすか?」

 ありえないとは言い切れない。
 私のマイナスの気配は、触れたモノすら巻き込み侵食する魔性の力。
 触れた物。触れた者。すべてをこの世界から消し去って異界のモノにしてしまう。それが、私から離れることで必ず元に戻るとは限らない。
 だから、私の体に触れるということは、自らの存在を懸けて愛するということ。一人の人間、自分自身の存在すべてを私に委ねるということ。
 先輩ならきっと、これから先、私以外のいい人なんていくらでも現れる。
 ここで存在を懸けるリスクなど、負う必要はない。

 それでも先輩は、私を求めてくれるっすか……?

「……たとえ私がこの世界から消えてしまっても、お前だけに見えればいい。お前だけに触れられれば、それでいい。だからモモ、私はお前に触れたい。この手でお前を感じたい」

「本当に……いいんすか? それに、私たち、女同士っすよ?」

「構わない。いや、おまえじゃなければ駄目なんだ。私はおまえが欲しい。女だろうが男だろうが関係ない。私は、おまえだけが欲しい!」

 真っ直ぐに私の目を見つめながら言う先輩の言葉に、私は頷くことで気持ちを返した。
 先輩は私を抱いて床に降ろすと、脱ぎかけだった私のブラウスを完全に取り払い、大きくなってからは誰にも見せたことのない、わりと自信のある胸を露わにした。

「モモ……綺麗だ」

 ブラに収まりきらない剥き出しの肌に口づけられると、先輩の唇から伝わる恋しさが甘美な痺れとなって体中を駆け巡る。

「ふあ……っ!」

 たったそれだけで体中に電気が走ったように、全身に力が入らなくなってしまう。
 大好きな先輩がこんなにも私を求めてくれている。もうこのまま、すべて任せてしまおうかとも思った。
 でも先輩……キスならこっちが先っすよ。
 はやる先輩の頭を両手で抱き寄せるように引き寄せ、互いに求めあって口づけを交わした。絡み合った舌は先輩のほうが積極的で、その間にも、先輩の手は私の胸と内腿を貪っていた。

「モモ……モモっ……!」

 先輩の熱い息を口元に感じる。
 普段そんな素振りは全く見せなかったのに……こんな発情期の動物みたいになるぐらい我慢してたなんて、意外とえっちさんだったんすね、先輩。
 先輩の指と舌が私の肌を舐るたび、快楽を与えられるたびに、私はここにいるのだと、自分の存在をはっきりと感じさせられる。
 好きな人に愛されて嬉しい。
 そんな当たり前のようなことが私にとっては、この世界にいる唯一の証拠になるのだ。

 人は、誰かに認識されて初めてその存在が確立する。
 互いを求めあうことで、私たちは生の喜びを感じることができる。

 先輩。先輩の生を、体温を、もっと感じたい。
 だから、私が先輩を脱がすまで、少し待って欲しいっす。

「モモ……あまり焦らさないでくれ……もう、おかしくなってしまいそうなんだ」

 そんなに焦らなくても、大丈夫っすよ。
 私の心も、体も、存在も、全部ぜんぶ、あなただけのものなんすからね――

 たとえ私たちがこの世界から消えてしまったとしても、二人がいるところが世界の中心。

 誰もいない世界の中に、存在を溶かしあう私たちの心音が、強く静かに響いていた。

<了>

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