咲-Saki-SS『黎明のサファイア』

 まさか上埜さんがこの大会に出ていたなんて……。

 ずっと私の心にあり続けた彼女が、手を伸ばせば届く場所にいる。
 もうすぐ副将戦が始まるけれど、この機会を逃してしまったならもう二度と会えないような、そんな気がした。
 中堅戦で彼女を見てからずっと抑えていた気持ちだというのに、もう会えないかもしれないと思うと、私はついに、いてもたってもいられなくなってしまった。

「少し、席を外します」

「は、はい。……キャプテン?」

 駆け出すように控え室を出ていく私の異変を感じ取ったのか、華菜の声は動揺しているようだった。
 みんな、深堀さん、ごめんなさい。
 後輩の応援をせずに私事を優先する。
 私は……悪いキャプテンだわ。

 清澄の控え室前まで来ると、弥が上にも鼓動は早まった。
 この扉の向こうに上埜さんがいる。
 三年前からこの右目に焼き付いている、彼女が。
 インターミドルで私を苦しめた。私の右目を綺麗だと言ってくれた、唯一の人。
 ノックをすると程なく返事が返り、私は扉に手をかけた。

「失礼します。あの……上埜、さん」

「あら、これは珍しいお客様ね。風越のキャプテンが私に何かご用?」

「少し、お話があります」

「そうね。私も気にはなっていたし。人目がないほうがいいわね?」

「はい」

 上埜さんは私と共に控え室を出ると、会場の非常階段へと場所を移した。
 ここなら確かに人目はない。想いを吐き出すには、絶好の場所だった。
 向かいあった上埜さんの目を、私は左目だけで見つめる。
 いまだ彼女は私のことを思い出してはいないようだ。
 この右目を開けば、思い出してくれるのだろうか。
 彼女が綺麗だと言ってくれた、異色の虹彩を。

「あなたのこと、どこかで見たことある気はするんだけど、どこだったかしら。あなたは私のことを知っているのよね」

「はい。三年前のインターミドルで。あなたは、途中からいなくなってしまったけれど」

「うーん。ちょっとその頃の記憶は曖昧でね……。申し訳ないけど、まだ思い出せないわ」

「上埜さん……、今は竹井さんなんですね」

「色々あってね。私としても、好きで不戦敗になったわけじゃないのよ」

「それはそうでしょうけど……。私の目を、あんなことを言ったあなたが突然いなくなってしまったから、私はあなたのことが気になって、ずっと捜してしまいました。まさか、清澄にいるとは思いませんでした」

「私、あなたに何か言ったのね。もしかして、そのことであなたを傷付けてしまった?」

「いいえ。あなたは私のこの目を」

「綺麗ね――だったかしら」

「え……」

 上埜さんは突然私の体を片手で抱いて、もう片方の手で私の右瞼を撫でた。

「思い出した。サファイアの子だ」

 彼女が口にする私の目の色。懐かしいその響きに、私の心は打ち震えた。
 あの日から変わらない飄々とした笑顔の裏で、いったいいつから気付いていたというのだろう。

「……相変わらずですね。その、打ち筋と同じ、大胆なところ」

「あら。そんな女たらしみたいに言わないでよ」

「後輩にもずいぶんと慕われているようですし、その通りなのでは?」

「それは、あなたもでしょ」

 彼女の手が私の髪の毛をとかし、あの頃と、同じ声色で囁く。

「本当に、こんなに綺麗になって……見違えたわ。わからないのも当然ね」

 ずるい。
 そんな言い方をされたら私は……過去も、今も、あなた以外のすべてを捨ててしまいたくなる。
 今の私は、清澄の敵。風越のキャプテン。そのことが、彼女の一言で、いとも簡単に揺らいでしまう。
 こんなにも惹かれていたのだと。こんなにも自分を抑えていたのだと。残酷なまでに気付かされる。

「上埜さ――」

 彼女の名を呼ぼうとした私の唇が、人差し指で塞がれた。

「今は竹井。でも、煩わしいから久って呼んで。久さんって、呼びにくいだろうから。だから、久って、呼び捨てで」

「……ひさ」

「美穂子」

 急に自分の名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がった。

「覚えてたんですね……私の名前」

「好みの子の名前はチェックしてるの」

「また、そんなことばっかり」

「誤解しないで。私だって、誰にでもこんな態度ってわけじゃないから」

「別に、それが嘘だったとしても、私はそれでもかまいません。ただ今度は、突然いなくなったりしないでください。どこかへ行ってしまうというのなら、そのときは、私も一緒に……」

 涙が、出てきてしまった。
 もしもまた、彼女がいなくなるようなことがあれば、同じような想いを再び何年も募らせなければならないのだろうかと思うと……。

「……そうね。こんな綺麗な子を三年も待たせちゃったんだから、責任とらなきゃ、ね。だから泣かないで。私が好きな美穂子の目は、涙で滲んだ色じゃない」

 そう言って、久は私を抱きしめると、耳元で優しく言葉を続けた。

「団体戦が終わったら二人で駆け落ちしましょうか。今度は、個人戦を二人で抜け出して」

「あのときの、久みたいですね」

「ええ。そして、今度は美穂子の苗字が変わるの。どう?」

 上埜、改め、竹井美穂子。
 三年前、憧れを抱いた彼女の姓に、私はようやく触れることができたらしい。
 叶わぬことだと半ば諦めていたけれど、いつのまにか彼女の悪待ちが私にもうつってしまっていたかのようで。彼女はそれほどまでに、初めて見たときから私の右目に、心に、強く刻まれていたのだろう。

「でも……きっとあなたは抜け出す気なんてないんでしょう。ここはまだ予選。あなたは、あの子たちを導いて、全国に行くつもりでしょうから」

「バレたか」

 嘘がバレたところで、決まりの悪さを微塵も感じさせない。
 そんなおどけた調子から一転して、彼女の目が真摯なものへと変わる。

「そうね、私たちは全国に行くわ。でも、美穂子のことは、本気だから」

「久……」

「ねぇ。目を開いて、よく見せて」

「はい」

 黎明の光をまぶしく感じるかのように、ゆっくり開いた私の青い目には、あの頃より少し、髪が短くなった彼女が映り込んだ。
 ずっと消えずにいた彼女の姿。
 凛々しい人、愛しい人の影が、今、重なった。
 私の止まっていた時間が、この瞬間に、動き始めた。

<了>

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